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空に浮かぶ聖なる大地。
その中央にそびえ立つ大神殿の最奥に、彼女は居た。
地上では見たこともないような明るい桃色の髪。
背には三対、合わせて六枚の白い翼。
翼の先には細かい細工の貴金属がジャラジャラと繋がり、煌びやかな装飾が施されている。
一見してそこらの天使とは格の違う、男性とも女性ともつかないその人物は、大神が姿を見せなくなったこの天界で、大神に代わり天使達に女神様と崇められていた。
祭典の折でなければ、一般天使は姿を見ることも許されない、そんな女神の宮。
そこへ入室を許可されたのは、絹のように細く美しい銀髪を腰上まで真っ直ぐに伸ばした片眼鏡の男性だった。
「お呼びですか?」
部屋の入り口を塞ぐように二重にかけられた布をくぐった男は、固い表情のままで尋ねる。
襟元も首元もピッチリと囲まれた、白を基調としたボタンの多い服は、レイ達兵士のものとは全く違う雰囲気だ。
翼を出すスリットはあれど、露出らしい露出はない。
薄手のブラウスのような白いシャツは、その上から濃紺の厚手の布と金で品よく縁取られていた。
桃色の髪をした女神は、たくさんのクッションで囲まれた大きな寝台風の場所に、重そうな六枚の羽を預け、座していた。
チラリと男を一瞥すると、女神は指先だけで手招きをする。
「キルトール、こちらへ」
性別不詳の女神は、声もまた、どちらともつかない響きをしていた。
キルトールと呼ばれた銀髪の男は、女神の脇まで進むと、膝を付き頭を垂れる。
銀糸のような長い髪がさらりと肩を伝い落ちる。
「聞きましたよ。あなたの義弟は越夜ができるとか」
言いながら、女神はキルトールの頭へ手をかざす。
「はい」と返事をする男へ、女神は術を施した。
手の平から広がる淡い光がキルトールの頭を包むと、片眼鏡の男はほんの僅かに眉を寄せる。
しばらく二人は目を閉じて、黙っていた。
手をかざす方はどこか面白そうに。
かざされている方は、どこか苦しげに。
キルトールは、頭から伝わる、ぞわりとしたむず痒いような気持ちの悪さにじっと耐えていた。
せめて、その手で頭に触れてくれれば、この言いようの無い嫌悪感から逃れられるのに……。
けれどキルトールのささやかな願いは、ずっと昔に却下されている。
この方にとって、他人に触れるのは汚らわしい事らしい。
キルトールは、何の償いにもならない事を知りつつも、義弟の記憶を読む時には、必ず頭に触れていた。
後悔と懺悔を込めて、ゆっくり、優しく髪を撫でれば、義弟はいつも少し恥ずかしそうに、しかし嬉しさを隠しきれない様子で微笑む。
その笑顔が、キルトールには、どうにもたまらなかった。
「ふむふむ……。なるほど、このような方法があるのですね」
楽しげに呟いて、女神はその手を下ろした。
男は、彼女に気付かれぬよう小さく息を吐く。
銀髪のかかった額には、じわりと脂汗が滲んでいた。
「今度こちらでも実験してみましょう。現地に協力者も必要ですね……」
女神は、白い指先で細い顎のラインを撫でながら、思案するポーズを見せる。
その間に、銀髪の男は数歩分距離を取って控え直す。
「あれの足取りは掴めましたか?」
女神の言葉に、キルトールはほんの一瞬躊躇ってから答える。
そんな事、わざわざ聞かなくても今見ただろうに。
「……いえ。ですが、四環の奪取に関わっているのは間違いないと思われます」
「となれば、あなたより先に義弟君の方が接触するかも知れませんね……?」
キルトールは、その言葉に奥歯を噛み締める。
女神の狙いは、私の顔を見ながらこの質問をする事にあったようだ。
女神はゆっくりと口端を持ち上げて尋ねる。
「あなたの可愛い義弟くんが、あれの存在を知ったら、どうなるでしょうね?」
「……っ!」
キルトールが紫がかった青い瞳を大きく揺らす。
それを、桃色に紫の混ざった瞳で、女神が楽しげに眺めた。
「いいですか?」
言葉とともに、女神の瞳が妖しい光を放つ。
キルトールは、湧き上がる嫌悪感を堪え、その光を受け入れた。
キルトールの瞳に桃色の光が移った事を確認すると、女神は語りかける。
「あなたは、天使の品格を守るのですよ。
決して、天使の品を落とすことの無いよう。
あれを私達が生み出した事は、決して、誰にも知られてはならない事です。
そのためには、どうすれば良いか、分かりますね?」
尋ねられ、キルトールは桃色の光を宿したまま、うわごとのように答える。
「あの者に、粛清を……」
「そうですね。良い報告を待っていますよ。それが達成されて、ようやく、私も安心できるというものです」
満足気にひとつ頷いて、女神と呼ばれるその存在はようやく術を解いた。
キルトールは退出を許され、礼を残して部屋を後にする。
姿が映りそうなほどに磨き上げられた真っ白な廊下には、一直線に青い絨毯が敷かれていた。
小さな窓の続く長い廊下を歩きながら、キルトールはようやく息を吐く。
何ひとつ信頼されていない。
あの方は、記憶として取り出した情報しか信じない。
しかし、それゆえに、全てを疑うあの方がこの城で一番信頼しているのは、私なのだろう。
私の全ては、あの方の意のままで、逆らう事など出来ないのだから。
キルトールに分かるのはそれだけで、それ以上、どうする事も出来なかった。
俯く視界の端に、真っ青な絨毯を縁取る金糸の刺繍。
明るい陽射しを浴びて、キラキラと眩く輝く金色は、義弟の髪の色と同じだった。
自分を慕う義弟の笑顔が脳裏を過ぎれば、冷え切った心がほんの少し温まる。
けれど、それを追うように、自身が先程感じた嫌悪感が蘇った。
結局自分は、あの方と同じ事をしているのだと。
あの、何も知らない純粋な子を、利用しているだけなのだと。
真実を知られてしまったら、あの子は私の事を、嫌悪するのだろうか……。
……私と、同じように……。
ぐらりと足元が崩れてゆくような感覚に、キルトールは堪らず立ち止まる。
「――っ……レイザーラ……」
震える唇が縋るように呼んだのは、自分が記憶を消した偽の弟の名だった。
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「クォォォォォォォォン」
遠く響いた空竜の声に、カロッサは勢いよく戸を開けて飛び出した。
外は良い天気で、差し込む陽射しの眩しさに、思わず目を細める。
空竜の姿は、まだ遥か遠くで、カロッサは三人が無事である事を祈りながら到着を待つ。
朝と言うほどではなかったが、お昼まではもうしばらくある。
カロッサは、周りをぐるりと見回した。
生き生きとした木々の緑、静かにさざめく湖畔、ほんのわずかに残った柔らかな霧、そこに差し込む陽の光。
なんだか目に映る全てが、息を呑むほど美しく思えて、涙が出そうになった。
(私が生きてきた世界は、こんなに綺麗だったのね……)
思い遺す事は、ないとは言い切れないけれど。
それでも、ここまで自分なりに精一杯やってこれたと思う。
あとはどうか、恐れないで。私。
怖いけれど。死ぬのはとても怖いけれど。
……痛いのは、嫌だけど。
あの子達なら、きっと大丈夫。
ここまで上手く行ってるんだもの。
ここで、私の死さえピタッとはまれば、世界はきっと救われるわ。
最後まで、出来る事を、最善のことをやろう。
カロッサの脳裏に、亡くなる直前の師の表情が過ぎる。
私を、大切そうに見つめてくれた、小さな瞳。
(ああ、あの時の御師匠様の気持ちが、やっと分かった気がするわ……)
カロッサは、自分の最後を看取るはずの青年を思う。
御師匠様の死で変われたのが私だとしたら……。
私の死で変わるのは、きっと彼なのだろう。
咄嗟の時にも術が移せるように、ずいぶん前から準備はしてある。
きっと大丈夫だ。
大丈夫……。
「カロッサー!! ただいまーーーっ!!」
明るい声と共に、リルが空竜の上から顔を出して、一生懸命手を振っているのが見える。
次いで久居とレイの元気そうな顔も見つけて、紫髪の妖精は、全員の無事にホッと胸を撫で下ろす。
「おかえりー!!」
カロッサは、隠したままの蝶の羽を大きく伸ばすと、明るい笑顔でリル達を出迎えた。
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