44話 憎悪

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「久居……」 「母を……あのように……冷たく、暗い海の底に、置き去りにして……」 低く低く、唸るような声で、絞り出すように久居は話す。 「……そうまでして、助けた弟も……、守り切れず、私は……っっ」 レイは、最初久居が泣いているのかと思って、顔を見ないようにしていた。 しかし、背後にゆらりと怒気を感じ、思わず振り返ると、久居は、その瞳に激しい怒りを宿していた。 強い憎悪の気配が辺りに広がり、レイは思わず岩から飛び降りる。 こいつ! 泣くの堪えてたんじゃなかったのか!! 怒り狂いそうなのを、必死で堪えてたのか!! ああそうか! こんな冷たいとこで、身体の芯から冷え切って何してんのかと思ったが、分かった! 頭を冷やしてたんだな!!! レイが自分の悪手をようやく理解した時、久居からズズズと真っ暗な闇が姿を現した。 その色に、気配に、レイは心の奥底から止めどなく恐怖を引き出される。 「リル! おいリル、起きろ!!」 レイはそれを打ち破るように声を上げ、背後の家に向かって呼びかけた。 闇は一気に膨れ上がると、久居目掛けて降り注ぐ。 「っ!」 久居は、ぐらりと姿勢を崩すも、なんとか踏みとどまった。 怒りや憎しみは、闇の力を強める。 久居の感情に、闇の力が応えたのだろうが、それにしても……。 レイは久居の姿をもう一度上から下まで眺めると、その異様な姿にごくりと喉を鳴らした。 久居はその全身を闇にきつく締め上げられ、痛々しい姿になっていた。 (相変わらず、お前の怒りの感情は自分だけに向かうんだな) 闇が周りを無差別に襲わない事は、レイにはありがたかったが、それにしたって、自分で自分を攻撃してるんじゃあんまりだと思う。 ギイッと窓が開いて顔を出したのは、リルではなくクリスだった。 「ど、どうしたの……!?」 「お嬢さん! すまないがリルを起こしてきてくれ!!」 「わ、分かった!」 クリスはバタバタと居間へ向かった。 これでひとまず炎は確保できるだろうが……。 「久居! 聞こえてるか!? お前、昨日の会話覚えてるよな!?」 レイは、空竜の上での会話を思い出す。 長距離移動用に巨大化した空竜の背中、一本一本の毛までが巨大化しているその皮膚の近くまで降りると、風に煽られることもなく人が座ってすごせるほどの空間があった。窓は無いが、レイが光球をいつものように水晶に詰めれば明かりには困らない。もっとも久居は夜目が利くし、リルも人よりは暗さに強かったが。そこは夜でも空竜の体温であたたかく、過ごしやすかった。 「なあ久居、お前、あれから闇の力の方は大丈夫なのか?」 少しだけ遠慮しながら、レイが問いかけると、久居が視線だけで振り返った。 「そうですね。時々リルに焼いてもらっていますから、今のところ制御できていますよ」 「ここから先は菰野もいない。……もし、今度がお前暴走したら……。…………俺は……」 レイは思い悩むように、ぐっと握った拳を見つめて眉を寄せる。 久居を傷付けずに救う事は、自分には難しいかも知れない、とレイは思う。 だから、レイは何より、久居の闇の力の暴走を恐れていた。 「その心配は不要です。私はもう、あんな失態は犯しません」 久居がさらりと答える。 「……い、いやいやいや、何を根拠にそうもキッパリ言い切れるんだ?」 レイが肩透かしを喰らって、がくりと姿勢を崩し、そのまま座り込んだ。 「菰野様に、生きて戻れとの命をいただきましたから」 荷物を纏める久居は、まだレイに背を向けていたが、久居が笑ったのをレイは感じた。 「私を粛せばレイは天界に戻れるところでしたのに、残念でしたね」 久居が楽しそうに言う。 その余裕には恐れ入ったが、その言い様には苛立ちを感じる。 俺は、お前を傷付けたくないから、気を揉んでいるというのに。 「はぁ……。まったく。お前の冗談は、いつも笑えないんだよ!」 この苛立ちを自分で解消するのも悔しく思えて、レイは久居の頭を後ろからぐいと押す。 久居は、敢えて避けなかった。 けれど今、久居はまた闇に飲み込まれようとしていた。 「お前、もう暴走しないって言い切ったじゃないか!!」 久居は、闇にギシギシと絡み付かれたままに、片手で顔を覆って、荒い息をしている。 「菰野のとこに帰るんだろ!!」 びくり。と久居が反応する。 「菰野を待たせてるのに、お前、こんな事してる場合じゃないだろう!!」 「……っ、菰野、様……」 小さいが、確かに聞こえた久居の声。 (よし! まだ久居には意識がある!! どうかそのまま、手放してくれるなよ……) この場に居ない菰野に頼るのは、どうにも情けないと思いつつも、レイは久居を傷付けずに済む方法を探る。 「菰野の言葉を思い出せるか!? 落ち着いて、呼吸を整えてくれ!」 (リルはまだか……!? 俺の全力の障壁では、闇を防げるかどうか……) レイが内心焦っていると、ようやくパタパタと駆け寄る軽い足音が聞こえてきた。 「久居っ」 闇色に捕らわれた久居を見て、既にリルは涙声だ。 「リル! やっと来たか! 炎を出してくれ!」 「レイに?」 リルがレイに手を伸ばしかけるので、レイが慌ててその手を久居の方に向ける。 「俺じゃない! お前が自分でやるんだ!!」 至近距離で叱られたリルが、耳をパタつかせて、ぴゃんと縮む。 「……ボクが……?」 リルは、自分の指先と久居を交互に見つめて、固まった。
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