君が赤く頬を染めるまで

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 ——それは仮初の微睡(まどろみ)。  ちゅくちゅくと若い葡萄の味がする唾液が混ざり合い、喉の奥へ温かい感触が押し寄せた。息が苦しくて、閉ざしていた瞼を開ける。涙で滲んだ景色に爛々と輝く君の瞳が映り、焦燥と恍惚が混じる汗が薫った。  喰らう、貪る、侵す。どの言葉が適当なんだろう。脳裏に浮かんだ児戯染みた思考は、痺れにも痛みにも似た悦びの波に流された。私の唇を支配したまま、なだらかな丘に這わせた君の手は赤い二つの蕾にたどり着く。力任せに果皮を剥くように摘まみ上げられ、蕾は膨れ上がり花開く。君は残酷な独裁者なのか、重なり合う唇をわざと解くと、私の喉からひゅうと吐息と喘ぎが塊となって吐き出された。  ——君は嬉しそうだった。私もやっぱり、嬉しいのかもしれない。  君の唇は下へと進む。喉仏、鎖骨、臍……。私も君の蕾に触れる。君の身体はとても薄くて、転寝(うたたね)の夢のような微かな膨らみに咲いた赤い花弁。優しく愛撫すると、君は(くすぐ)ったそうにした。  君の手が一番奥まった赤く暗い穴蔵に到達した。透明な本能に指を湿らせて、奥底で産声を待つ肉体の祭壇に灯がともる。熱くて、苦しいのに、心地良い。私も負けじと手を伸ばし、君の闇へと突き進む。水底に沈んだ二枚貝が互いに身を寄せ合う。  覚め切らぬ眠りを求めて、幾度となく私たちは堕ちていく。  ……浅い微睡から先に目覚めたのは私だった。空はもう茜色。小高い丘の、誰もいない粗末な(やしろ)の縁台に私たちは寝そべっていた。  ——罰当たりなら、あたしたちにちょうどいい。  そういって悪戯っぽく笑った晶子(あきこ)ちゃんを思い出す。横を見ると彼女は薄いコートを毛布代わりに掛けて眠っている。その頬は冷たい冬の外気のせいでほんのりと赤い。私は晶子ちゃんの傍に腰掛けて、羽織っていたダウンをひざ掛けにして、その半分を晶子ちゃんの上半身に掛けてあげた。  視界の先に、色褪せて黒ずんだ前掛けを首に巻いたお稲荷様がいた。顔の左上半分が欠けていて、残った右半分の顔に穿たれた黒い瞳の窪みが私たちを見下ろす。——お前たちの企みは分かっている。そう言われているような気がした。悪夢を見ているのか、晶子ちゃんが(うな)ったので、汗の余韻が残る冷たい髪をかき分けて頭を撫でた。  じんじんと肩が痛い。晶子ちゃんは果てる間際、必ずその鋭利な犬歯を私の肉体のどこかに突き立てる。血は出ていないが、赤く腫れあがっている。何故そんなことをするのと尋ねたら、答えは——自分でも分からない、だった。  恐らく晶子ちゃんは誰かを傷つけたくてたまらないのだろう。そうすることでしか、自分の存在が許されてこなかったから。  縁台に放り投げた素足をぷらぷらとさせて、暮れゆく空をぼんやりと見ていた。今日で学校の定期試験は終わり。明日からはもう、ここから空を見上げることもないだろう。私はそんな物思いに耽っていた。  ——晶子ちゃんとの出会いは夏休み。私たちは地元の市立中学に通う三年生だった。  私の両親は私に対して徹底的に無関心な人だった。物心ついた時から、両親に可愛がられた記憶はない。両親ともに裕福な家庭で生まれ、私の家も当然のように裕福だった。大きな庭付きの家。ピアノのある部屋。兄弟のいない私のお洋服は常にピカピカの新品で、同世代の子が欲しがるものは何でも一方的に買い与えられた。誰もがうらやむお嬢様。……外聞上は。   お父さんは何の苦労もしないで育った甘ちゃん。これは随分前にお父さんのお姉さんに耳打ちされた言葉だ。そのお姉さんもまた、甘くて臭い香水の匂いがぷんぷんする感じの悪い人だった。  お母さんも箱入り娘というやつで、何の苦労も知らない阿婆擦れ。それは苦労を知らないはずのお父さんが、家で泥酔してリビングでわめいていた言葉だ。  その日お母さんは同窓会に出ると言って不在だった。私はもう寝たと思っていたのだろう。お父さんはお母さんへの罵詈雑言を叫び続け、何かが割れる音が階下から聞こえた。私は一睡もできず、お母さんが帰ってきたのは翌日。日曜日の昼下がり。二階の自室で震えていた私は玄関の扉が開く音がして階下へと駈け寄る。  しかし、階段を降り切る手前で、体が硬直してしまう。何故なら、野獣のようにお母さんの名前を呼び捨てるお父さんの咆哮が聞こえたから。  でも、お母さんはあくまでも冷淡だった。  ——何。  つまらないもの。そう、繰り返し流れて見飽きたCMを飛ばすかのようにお母さんはお父さんの脇をすり抜けていった。お父さんは目を見開いて悠然と通り過ぎるお母さんを睨みながらも無言だった。甘ちゃん。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。私はお母さんと目があった。ほっとしたのか空腹のお腹がぎゅぅっと鳴った。でも、お母さんは面倒くさいと一言呟いて自分の部屋に消えてしまった。  お母さんにとって私も見飽きた何かでしかなかった。お父さんにとっては外聞を整える為のお飾りでしかなかった。いても、いなくてもいい。仕方ないからいる。それがあの家での私だった。  小学校高学年の頃から、家に帰りたくなくて図書室に通うようになった。ぎりぎりまで図書室にいて、家に帰っても部屋に籠って本を読む。そうして毎日が過ぎた。根暗な性格のせいで遊ぶ友達もいない。地元の中学に進んでもその毎日は変わらず、私は図書室の幽霊と陰口を叩かれるようになった。幽霊。上等だ。生きているのか死んでいるのか自分でも分からない。  夏も真っ盛りの時期。どこへ行くでもなく、冷房の効きすぎた図書室で一人本を読んでいた。——そんな静寂を破るように、晶子ちゃんは大きな音を立てて図書室にやってきた。  ぼさぼさの髪。よれたYシャツを着てスカートは薄汚れていた。ひょろひょろと背ばかりが高くて体は紐のように細い。彼女は辺りをうろついて、私を見つけるとタイトルも見ずに本を抜き取って私の斜め前に座った。彼女は話しかけてくることもなく、難しい顔で本に目を落としていた。……だってそれは百科事典だ。面白いわけがない。  次の日もその次の日も、彼女は私の近くで本を読もうとしていた。気になって声を掛けようとする私よりも先に話しかけてきたのは彼女だった。 「足があるんだね」  彼女はただ事実を述べるような素振りだった。 「図書室の幽霊って聞いた。でも、足があるから人間だ」  私が戸惑っていると、彼女は自己紹介を始めた。 「三年B組の井田。井田晶子」 「……C組の城崎塔子です」 「トーコ。漢字は?」 「建物のトウに、子供のコ」 「私はあきこのアキに、子供のコ。子で終わるもの同士、仲良くしよう」  彼女のあまり説明になっていない自己紹介に笑ってしまった。私が微笑むと、仏頂面だった彼女も笑った。そうして私たちは日々を共にするようになった。  図書室ではお喋りができない。晶子ちゃんは秘密の場所といって町はずれの丘に私を連れ出した。そこは冷たい小川や原っぱや木立があるところで、私たちは日がな一日お喋りしたり、水遊びをしたりして過ごした。辺りを散策すると打ち捨てられた小さな神社があり、そこを秘密基地にした。私たちはそうやって夏をずっと二人で過ごした。  晶子ちゃんは学校で乞食女と陰口を叩かれていた。いつも服はよれよれで、鶏がらみたいな貧相な身体つき。でも、彼女の瞳は猫のように大きくて、唇は百日紅のように紅く、顔は美しく整っている。そんな彼女がぼそぼそと喋ると止めどなく愛嬌が溢れた。  夏休みが終わり二学期が始まってからも、私たちはいつも二人でいた。私は中学三年生にもなって初めて、空の下で自由に走って友達と転げまわる楽しさを知った。私たちは肩を寄せて語り合い、手を繋いでどこまでもどこまでも探検した。気がつけば遥か遠くの見知らぬ町まで行ってしまったこともある。  晶子ちゃんと並んで歩く世界は景色が澄み渡り光輝いていた。  ——でも、そんな愛おしい時間すら、ある日を境に様変わりをしてしまう。  形ばかりの家族のお正月を嫌々家で過ごして、休みが明けた頃だった。晶子ちゃんは学校をしばらく休んだ。待ち合わせ場所の社にも来ない日が1週間も続いて、ようやく姿を現した時、彼女の顔には痛々しい青痣の痕があった。痣の場所はちょうど頬。平手打ちなんかをされると腫れ上がるような場所。私はまことしやかに教室で聞いた噂を思い出した。  ——B組の井田晶子は虐待を受けている。  思い当たる節はあった。一度私が家族の愚痴をこぼした時、顔を引きつらせて、止めてくれと晶子ちゃんは叫んだ。それ以来、家族の話題は禁句(タブー)だった。  ——いつものことなんだ。  晶子ちゃんは虚ろに語りだした。冬の季節になると父親が暴力的になること。幼い頃にそれが苦で母親が蒸発してしまい、それ以来その暴力は彼女に向けられ続けていること。歯を折られたり、熱湯をかけられたりしたことすらあること。  何も言えなかった。私など生ぬるい。そんな生き地獄の責苦を受けて、晶子ちゃんは生きていた。  ——何か言ってよ。ねぇ。  晶子ちゃんの目は空っぽだった。もともと黒目がちな瞳は墨を垂らしたような暗闇だ。  ——塔子ちゃんも同じ。結局皆私から離れてく。  晶子ちゃんは私を置いて立ち去ろうとした。私は慌てて彼女を後ろから抱きしめた。お願いだからいかないで、と。何でも力になるから、と。  ——なんでも?  晶子ちゃんの真っ黒な瞳が私を捕らえると、刹那に私を社の縁台に押し倒した。細い体から想像できないような力で私を押さえつけて、晶子ちゃんは泣きながら私の唇を奪った。私の胸をまさぐり、無垢なところに指をいれ、荒々しく私を虐げた。  私は涙を流しながらそれを受け入れた。晶子ちゃんのことが好きだった。初めての友達だった。何より。——あいつ、こんな気持ちだったのか。そう呟いて私の胸を噛む晶子ちゃんのことをどうしても拒絶できなかった。受け入れてあげたかった。全てを。  寒空の下で私たちは果てた。痛みを越えた先に見えたものは仄暗い快楽だ。晶子ちゃんとならどこまでも行ける気がした。ぐったりと横になる晶子ちゃんの平らな胸にキスをして、私は言い放った。  ——家族を捨てよう。  晶子ちゃんは涙を流して満面の笑みで頷いて、捨ててやろうと叫んだ。泣き笑う晶子ちゃんの頬は、夕陽に染まり真っ赤だった。  それから数週間後、定期試験が終わった次の日だ。学校はしばらく休み。私たちは家族に何も告げず遠くへ旅立つ約束をした。待ち合わせは夕暮れ前、いつもの社で。私は着替えやら何やら必要になりそうなものをありったけ詰めて社の縁台で待っていた。今日も両親は家にいない。私がいないことに気づきもしないだろう。でも寂しさはなくて、高揚感だけが胸の中にあった。いつか読んだ冒険譚のように、二人でまだ見ぬ世界を駆け抜ける。そんな想像ばかりが広がった。  顔の崩れたお稲荷様がこちらを見ていた。口元だけがはっきりと笑みを浮かべていて、相変わらず気味が悪い。時折吹く強い風が近くの木立を揺らして不穏な音がする。一人の時間はなんて心細いのだろう。私は晶子ちゃんが早く来るように願った。しかし夕暮れになっても晶子ちゃんは来ず、空からちらほらと細雪が降り始めた。手は震え、頬は寒さで真っ赤になっていく。もう少しすれば夜の帳が降りてしまう。  約束は嘘だったのか。そんな邪推が頭を(よぎ)る。空は菫色(すみれいろ)に移ろい始め、お稲荷様に暗い影が落ちようとしていた。底冷えのする寒さに下腹部が麻痺しそうだった。  その時だった。  ——お待たせ。  木立の向こうから走り寄る人影があった。晶子ちゃんの声。でも様子が変だ。人目を(はばか)るように、晶子ちゃんは何故かコートのフードを深々と被っていた。  ——晶子ちゃん。  彼女を出迎えようと近寄って、そして——私は思わず息を飲む。  ——ごめん、遅れて。  にっこりと笑う彼女の顔は薄ら闇の中でもはっきりと分かるほどに赤かった。寒さのせいではない。赤茶けた液体が彼女の頬にべったりとついていた。  ——捨てて来たよ。家族。  フードを脱いだ彼女の真っ赤な顔は誇らしそうだった。捨ててきた。それが何を意味するのか私は尋ねることが出来なかった。  ——さぁ、行こう。  差し伸べられた彼女の真っ赤な手を見て思う。私たちは何を求めていたのだろう。何を間違えたのだろう。そんな懺悔のようなものが沈みゆく夕日に塗り潰されていった。私は無言で彼女の手を取り、暗闇の待つ方へと共に走り出す。  ずっと、私たちは夢を見ていたのだ。  ——君が赤く頬を染める、その時まで。
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