あなたの声が聞こえない

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あなたの声が聞こえない

はじめて会ったのは彼が小学生の頃だった。 まだ身長だって私より小さかったし、声だってウィーン少年合唱団みたいだった。 今は大人になり、男一人で立派に暮らしてる。 幼馴染というべきか? ある時から彼は私と口をきかなくなった。 挨拶をしても無視。 目も合わせない。 筋肉質でイケメンだったからモテていたし、ある時には知り合いに 「私彼に告白したんだけどね。やんわり断られちゃった」なんて話も聞いた。 そんなモテ男の彼は、絶対に私と口をきかない。 だけど、私は別に構わなかった。 ブサイクな私の顔をみたくもないとしても、アヒルのガーガー言う声を聞きたくないとしても そんなの彼の自由だ。 ただ時々、彼が私の方を向いて口をパクパクさせているのだけは気になっていた。 あれは何のパフォーマンスなんだろう、って… そんなある日私は真夜中に一人で寝ていて、ブタの強烈な鳴き声を聞いて飛び起きた。 ブヒヒー!! 「うわ!」 真夜中にブタ? なんで? 変な夢でも見たのだろうか。 私は半分呼吸困難になっていた。 ひどい鼻詰まりで口呼吸しかできない。 もうブタの正体は私しかいないだろう。 すぐに耳鼻科にいってブタを退治することにした。 「ひどい副鼻腔炎になってるね」 「ですよね」 だってブタの鳴き声で叩き起こされるなんて、人生初の出来事だもの。 ついでに私は聴力検査も行った。 音が鳴ったらブザーを押してください、とボタンを渡され、電話ボックスのような無音空間に入れられる。 ボタンを持って待ち続けるものの、検査はなかなか始まらない。 検査の人が何度も防音室のドアを開けて「音が鳴ったらブザー押してください」と言ってくる。 「はい」と答えると、また 「音が鳴ったらブザーを」と言ってくる。 私は説明いいから、早く検査始めてくれよ、とイライラしてきた。 相手も「音が鳴ったら」と言いながらイライラしている。 そしてお互いにやっと気付いた。 検査とっくに始まってたのね。 聞こえてなかったのね…と。 「低音難聴ですね。一定音域が全く聞こえてませんね」と言われる。 は? 私は今までずっと音楽をしてきた。 欠かさず音を聞き続けてきた。 それが祟ったのだろうか? 私は副鼻腔炎の治療が始まったけれど、難聴の治療は何も行なわれなかった。 医学書を調べてみると治療のことが書かれている。 治療法はあるのにしない… ということは。 先生は私の難聴を後天性のものではなく、先天性の低音難聴だと診断したということを感じた。 思い返してみれば確かにそうだ。 子供の頃演奏していたエレクトーン。 足で操作するベースペダルがいつもこもった音をしていて聞こえない。 だからベース音を最高音量にしてもやっぱりこもった音がするだけで一切音量は上がらなかった。 高校生の時に買ってもらったピアノ。 左はしの低音部は5鍵ほどこもった音がして最後の鍵盤は何の音もしなかった。 ひどい不良品を買わされたと怒っていたんだ。 あれは全て私の耳が聞こえていなかっただけなのか、と今さらながらに感じた。 子供のころからそうだったのか… 日常生活では全く気付かなかったし、それまでの聴力検査で引っかかったこともない。 おそらくゆっくりと聴力が落ちていったのかもしれない。 それがわかった時、初めて気が付いた。 あの幼馴染の彼は、もしかしてずっと無視するイヤな奴ではなくて、いつも答えてくれていた? 無視していたのは私の方なの?! それから私は偶然彼に出会った。 本当になぜだかわからないけれど、その日は彼の声が聞こえた。 「僕のこと嫌いでしょ」 と彼は言った。 「嫌いなわけないじゃん!」 と私は慌てて答えた。 これは誤解を解くチャンスだ。 私は自分の低音難聴について話す。 「私体調によって聞こえる時と聞こえない時があるみたい。 もし、無視してるみたいだったら聞こえていない可能性があるから、別の方法で知らせて」と言った。 「うん」 相手は意外にもそんなに驚いている雰囲気でもない。 彼はずっと私のことを無視していた訳じゃなかったんだ、とわかってなんだか落ち着いた。 そして私の難聴のことも伝えたし、今まであったすれ違いの数々もお互いに消化できる。 そう思った。 だけど「危ない!よけて!」なんてボールが飛んできた時も言われて気付けないし、「火事だー!」と叫ばれてもわからない。 大事な話をしても聞こえない。 これは身の危険を感じることだ。 だとしてもどうすることもできない。 そして声変わりした幼馴染の言葉も聞き取れなくなって。 私は今日も高音域の世界だけで生きている。 それから何度か彼に偶然出会うようになった。 彼の声はどういうわけか聞こえるようになっている。 私に聞こえるように声のトーンを上げて発声のピッチも上げてくれているのかもしれない。 私たちはまた幼馴染に戻れたのかなと思う。
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