大豪邸の悲劇

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大豪邸の悲劇

近所には関東平野の地層がわかる、という小高い丘があった。 そこには太古の昔から堆積した、富士山の火山灰が降り積もってできた地層が見られる。 灰色に積み上がり、何度も繰り返される地震によって地盤が曲がりくねり、不思議な模様を作っている。 バームクーヘンのような何層にも重なる地層が、踊りくねるのを見ると関東に住んでいて大丈夫だろうか? と思わずにはいられない。 そのすぐ近くに、ある時から建設工事が始まった。 ずいぶん長い工事をしている。 ショールームのような大きな窓、料亭のような大きな家に広い庭。 それにピッタリと隣接するいかつい建物。 なんだろう? 何かのお店でも建つのだろうか? そう思っていると、自分の通う小学校にも転入生がやって来た。 おぼっちゃま、それ以外の形容詞はない。 田舎の中流家庭の住宅地に突如として現れた豪邸と共に、場違いなおぼっちゃまがブランドファッションで転入して来る。 これはとんでもない場違いだ。 豪邸は大きな窓のリビングルームが丸見えで、そこにコンサートホールでしか見たことがないグランドピアノが置かれる。 ここは高級ホテルのラウンジか? 中流家庭の周辺は、この豪邸兼病院が建ったことで動揺していたに違いない。 立派な外観は、当時の貧乏だった日本で眩しすぎて目がくらむほどだった。 ともかく、そこの外科病院の息子は私と同じクラスになって不思議なことをしている。 テストを白紙解答して話題になった。 アホ息子か! と思ったが、私とは違う。 低学年でありながら、秀才過ぎて先生いわく 「あいつはオマエラとは違うんだからな!わからなくて白紙解答してるんじゃないぞ。」 と言う。 なんと、テストが簡単過ぎて答えるのもバカバカしいという。 授業もアホらしくて聞いていられないんだとか。 そんな理由で低学年から白紙解答している子供を、私はその子以外に見たことがない。 そんなある日、図工の授業で彫刻作りをすることになり、彫刻刀セットを一式揃えることになった。 なんだかワクワクする。 私は鎌倉彫のおぼんが自宅にあったこともあって、彫刻には幼いながらも興味があった。 だいたい小学校で彫刻の授業があると、学年で一人くらいは惨事にあう。 彫刻の授業の2回目だ。 その惨事にあったのは自分を彫刻したマヌケな私だった。 忘れもしない三角刀。 くの字に曲がった刃が私の左中指を彫り抜いた。 買ったばかりの三角刀。 抜群の切れ味で小さい幼な子の指に突き刺さる。 真っ赤な鮮血がこんもりとパールのように盛り上がった。 とにかく急いでおぼっちゃまの病院へ連れて行かれる。 保健室では止まらない出血に対応できなかった。 病院に着くと、優しい目をしたまあるい体の小さな先生が出てくる。 これがあの秀才の父親か。 物凄い美人の奥様と暮らしている。 あのラウンジみたいな部屋のグランドピアノの持ち主だ。 とりあえず私の手術は始まった。 外科医としては久しぶりに腕のなる仕事だろう。 なんせ1針しか縫わない簡単な手術だけれど、おニューの手術室を使える絶好のチャンスだ。 指先の局所麻酔はとにかく痛い。 人生初の手術に心臓は破裂しそう。 小さな手術室があって、そこにはテレビで見たことのある大きな丸いライトがあった。 ザ手術室という感じだ。 この豪邸には病院の建物内にちゃんと手術室もある。 レントゲン設備もあり、かなりまともな病院であることに間違いなかった。 先生は私を怖がらせないために、他愛もない話をしながら縫合していく。 麻酔がかかっていても、月型の針が糸をひいて肉を突き破り糸が通り抜けて行く感覚があった。 あっという間に縫い終わり、先生はボールに入った水で私の血をゆすいでいる。 子供だと男の子でも泣き出すという手術に、力一杯我慢して臨んだ私を先生と看護師さんが褒めてくれた。 私はこの優しい先生と看護師さんが大好きになった。 謎だったのは、この手術で痛み止めも出されなかったことだ。 夜には激しい痛みで熱も出たが、子供の私には対処法がわからない。 親にだってわからないから、痛いよぉと訴えても 「縫ったんだから痛くて当たり前でしょう。 我慢しなさい。」で終わりだった。 まぁ、そんな我慢と根性がまかり通る時代だったと思う。 そのうち中学に上がる頃には、秀才のおぼっちゃまは近所の市立中学なんぞには入らない。 どこかの有名私立に行ったと伝え聞く。 あの頃にはわからなかったが、浮きまくっていた普通の公立小学校暮らしは、本人にもさぞかし苦痛であっただろうな。 それから一度も会うこともなかったが、小学校時代のようにアホらしくて白紙解答する余裕はその後はなかっただろう。 後にこの病院は破産して廃屋となり、やがて切り売りされた土地に別の家が何軒も建っている。 また関東平野の地層が見られた丘も切り崩されて、全く違う景観になり、昔の面影は何も残っていない。
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