60人が本棚に入れています
本棚に追加
第十六話
「ちょっと!アサミはまだなの!?遅いじゃない!!」
ヘルプに入った後輩達ですらたじろんでしまうこの女性。見た目からしてどこかの社長婦人というように見える。
恰幅の良い体系に、指という指すべてにはめられたカラフルな色の宝石が付いた指輪。ここまで大きな石だと逆に偽物ではないかと思えてしまう。
「で、ですからアサミさんは今日は本当はお休みで別の席に…」
「お黙り!!」
宥める若いホストの顔に酒をぶちまけ、女性は荒々しく空になったグラスをテーブルに置く。
「お、奥様っ…!!」
「君は下がっていいよ。着替えておいで。」
酒にまみれても尚、激昂するその女性を宥めようとしていた青年の肩にそっとつかさの手が触れる。
初めて見るつかさに驚くも、退席を促されると軽く頭を下げてその場を離れる。
「あら…アンタ見ない顔ね。」
女性は片眉を上げてつかさを見遣る。
「つかさと言います。アサミが来るまでの間ふつつかですがお相手させて頂きましても宜しいでしょうか?」
つかさは笑った。
控室にあったのか、メタルフレームの眼鏡を掛けたつかさはどこかインテリ系の様子を醸し出していた。
しかしその眼鏡の奥は涼しく、微笑んでいるのは口元だけであるとその女性は気付いていたのだろうか。
「あ、あらそうなの?じゃあアンタでもいいわ。」
「有難うございます」
一度席に付くことを許されてしまえばつかさにとって怖いものは無かった。
現役を離れたとはいえど、薄暗い明かりの中、自分を守るための眼鏡を装備すれば昔の感覚が蘇ってくる。
「アンタ礼儀正しいわね。やっぱ最近の若い子じやダメよ。」
「あはは…手厳しいお言葉を。俺もまだ若いつもりなんですけどね。」
女性に媚びるこんなつかさの姿など要や吾郎は見たことがないだろう。
「アンタ気に入ったわ。今度来た時アサミのヘルプにアンタを指名してあげる。」
「それは光栄です。でも奥様?今度はいつ来て下さるんですか?中々いらっしゃって下さらないと聞きましたけど…」
ソファについた腕に、少しだけ体重をかけて相手に寄り添う。
下から見上げる形で視線を向けながら、落ちかけた眼鏡を指で押し上げる。
「あら、そんな事ないわよ。今までの贔屓が居なくなったから今度からはアサミを一番に指名しに来るわ。」
「いなくなったって…アツロウさんですか?」
「良く分かったわね。」
思ってもいない返答だった。
つかさは眼鏡の奥でくすりと笑う。
「アツロウさんってそんなに素敵な方だったんですか?アサミさんより?」
つかさが手を重ねると、その女性は気を良くしたように口の端を上げる。
「そうね、誠実さではアサミの方が上かもしれないけど。なんたってアツロウにはアサミには出来ないことが出来たから。」
枕営業の事だ。とすぐにつかさは感づいた。確かにそればかりはアサミには出来ないだろう。
「特にアツロウは人気あったからねぇ。あたしも大分金積んだけど、最後にはあたしと陽子の取り合いになったかしら。アレは修羅場だったわね。」
女性同士の修羅場というのはあまり見たくはないものだった。
気が付くと女性の方から強くつかさの手を握っており、内心はすぐにでもその手を振り払ってしまいたいものだったが、今はそうもいかない仕事中だった。
気に入って貰う分には構わない。仕事中だけは。
「陽子さんってどんな方だったんですか?」
「普通の主婦よ。あたしと違って子供もいてね。あたしに負けたくないもんだから、どこから工面したか分からないけど湯水みたいにアツロウに金かけてさっ」
「二人の女性にそんなにお金かけさせるなんてアツロウさんって凄い人だったんですね…」
「女に手出すのだけは早かったけどね。」
女性が笑ったのでつかさも笑った。しかしそれは営業用だった。
「それが最期は女に殺されるんだもんねーホントにお笑い草よ。」
下品な笑い方には流石のつかさも少し疲れて来た。
しかしその代わりに得た情報はつかさにとっては有益な情報だった。
『陽子』という女性がもしかしたら笠井の死に関わっているかもしれない。
「奥様、また今度いらっしゃった時には俺の事指名してくれますか?」
「ん~、それもいいわねぇ」
そう言ったかと思うと、女性は指輪の付いた太い指でつかさの顎を持ち上げた。
「つかさだっけ?中々綺麗な顔してるしねぇ…」
もう片方の手でつかさの眼鏡が外される。
直視したくはない顔面が近付いてこようとも、つかさは目を細めて軽く微笑みながら視線を向けるだけだった。
「あたしのイイ人になるかい?」
そんなの御免だ、とつかさは内心毒づいた。
「つかさ、俺の代わりアリガトウ。もう下がっていいよ。」
その声に、つかさは安堵の息を吐いた。
ようやく覚醒したアサミが背後に立っていたからだった。
「あらっ、アサミ!遅かったじゃない。」
「すいません七恵さん。七恵さんに目ェかけて貰ったお陰で俺も今すっかり売れっ子になっちゃって。」
アサミはつかさを押し退けるように七恵とつかさの間に入り、七恵の手を取った。
「つかさ、」
小さな声で呼ばれてつかさが振り返ると、レンが手招きをしてつかさを呼んでいた。
「七恵さん俺に会いに来てくれたんでしょ?つかさなんかに心奪われちゃ俺妬いちゃうなぁ」
「あ~ん、怒んないでぇ、アサミぃ。」
七恵の注意がつかさに向かないうちに、こっそりとつかさは席を立ち上がった。
久し振りのつかさの接客を終始見ていたレンは笑いを堪えながらもつかさを迎える。
最初のコメントを投稿しよう!