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第十七話
「つかさ、アレって条件反射?」
レンは元より同僚としてつかさのホスト時代を知っていたわけだから今更恥ずべき事でもないのだが、レンからしてみればあの七恵に正面から媚びを売れるのはアサミくらいだと思っていたので、感心をしてもいるのだった。
「条件反射ですね。素面だったら確実に無理です。」
「お疲れ様、とにかく今日は助かったよ。アサミが上がるまでゆっくりしてけな。」
「あれ、後輩の子達は…?」
席に視線を向けると三人の姿は既に無かった。
「あぁ、なんか門限とかで少し前に帰っちゃったよ。」
「なんだ、残念。」
よく考えてみると、それ程彼女らと会話をしてはいなかったかもしれない。
「そうだレンさん。『陽子さん』って知ってますか?」
「陽子さん?あぁ、あの七恵さんと歌舞伎町で大乱闘したっていう?」
レンは煙草に火を付けながらその煙をゆっくりと吐く。
「陽子さんは七恵さんと違って普通の主婦だよ。だから周りもどこから金の工面してるのか不思議がってた。」
「子供がいるって聞きましたけど。」
「みたいだな。つかさ達と同じくらいの歳の。」
女とは、やはり子供がいようとも金を出せばその分相手をしてくれる男に惹かれてしまうものなのだろうか。
それはつかさには理解しがたいものだった。
「ってゆうかどう?つかさもこれを期にまたこの仕事やってみねぇ?」
レンの唐突な提案に思わずつかさは吹き出した。
「ははっ、それが出来たら良かったんですけど今は自分のバイトが忙しくて無理ですね。後ホストは二度とやらないって約束しちゃってますんで。」
「あぁ、アレか…」
その時、つかさの携帯が突然鳴った。
「すいませんレンさんちょっと電話…」
それはメールではなく電話着信だった。
つかさはレンに断りを入れて電話に出る。
「…もしもし?」
『……ちぃちゃん、今何処に居る?』
聞こえた吾郎の声に、つかさは思わず息を呑んだ。
電話越しの吾郎の声は、いつも通り優しげではあったが、どこか怒っているようにも取れた。
「友達の…店だけど。」
『明日学校無いの?』
「…あるよ。」
『なら、帰っておいで。』
つかさは電話に耳を傾けたまま、店内の掛け時計に視線を向けた。
時刻は既に夜中二時を回っていた。
「電車無いよ。タクシーで帰る金も無いし…」
『今、何処?』
「新宿…」
『駅前まで、おいで。』
それだけ言うと、吾郎は一方的に電話を切った。
残ったのはツーツーと虚しい終了音だけだった。
「…すいませんレンさん。俺帰らないと。」
「え、でもアサミが…」
「あいつには後でメールしときます。なんか兄にバレたみたいで。」
手早く荷物をまとめると、つかさはレンに向き直る。
「あれ…つかさってお姉さんがいたんじゃなかったか?」
またこの質問か、とつかさはうっかり口走ってしまったことを後悔した。
「兄も、いましたよ。」
ただ今はその言葉しか言う気がない。
「アサミによろしく言っておいて下さい。また機会があったらこっちにも遊びに来ますんで。」
「ホンっト、お前が辞めちゃって残念だよ。いつでも歓迎するからさ。お客としてもホストとしても。」
「あはは、ありがとうございます。」
適当な笑顔で答えると、つかさは遠目で視線が合ったアサミに軽く手を振る。
外に出てもネオンと人は引かず、つかさは一人眠らない街を後にする。
「あ…」
新宿駅へと向かう途中、何かがつかさの足を止めた。
とても大切な事を忘れていた様な気がする。
”何故”自分はそんな事に気付かなかったのか。
そんな簡単な事に。
パッパー!
クラクションの音につかさが顔を上げると、そこは既に新宿駅前だった。
自分がどのようにしてここまで歩いてきたかの記憶が無い。
「つかさ!」
ふいに掛けられた声に顔を上げると、目の前の赤い車から吾郎が顔を出していた。
「乗って。」
「…はぁい。」
「何か、分かったことはあった?」
「んー…まあ少しは…」
自宅方面へと車を飛ばしながら、吾郎はつかさに問う。
「俺は笠井って奴がどんな人間なのか一通り当たってみたけど、ろくな男じゃなさそうだな、アレは。」
「貢がせるのが仕事なんだけどね、ホストって。」
「客になった女とは片っ端から寝て、金が無くなったらポイ捨てしてたみたいだから大分女からは恨まれてたみたいだけど。」
吾郎の説明を聞きながら、つかさは流れる外の風景を眺めていた。
「要にはちゃんと言って来たのか?」
「…何を」
「いや、出掛けてくるって事。」
「必要ない。」
「…ちぃ、父さんに会って来たよ。」
「…そう。」
二人はそこから無言となる。
夜の闇に浮かぶ小さなネオンは、地元に近付くにつれ徐々に少なくなって来た。
自宅に着いて、ようやく自分の部屋で仮眠を取ってからどの程度の時間が経過しただろうか。
恐らくそんなに時間は経っていない。
しかし朝が来ればもう起きなければならないし、今日こそは学校にも行かなければならない。
疲労感ばかりの中、つかさは重い頭を無理矢理叩き起こすように一本の煙草に火を付けた。
昨日得た情報だけでもパズルはあらかた埋まる。
後は組み立て方を間違えなければいいだけだ。
それでも深い溜息が出てしまうのは気が重いからだった。
気が重いし、頭も痛い。
気分が優れないのは事件があった日からろくに睡眠を取れていないからだった。
睡眠不足が重なると必然的に食欲も落ちる。
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