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第二十二話
とても、重苦しい夢だった。
気が付いたら辺りは暗く闇の中で、自分の形すら分からない。
この感覚は前にも覚えがあったので、見えない拳を黙って握る。
声が届かないことも知っていた。
ただ一面の闇。
何も聞こえない。
何も見えない。
隣に、誰かがいた。
顔など見えるわけもないのに、その相手は自分を見て笑った。
微笑んだのだ。
その優しい顔に眉間を寄せ、頬を打つ。
砂の様に崩れたそれは自分にとって大切なもの。
跪づき、その砂を手に取り、
一人、泣いた。
そこで夢は終わる。
掴んでいた手の中には何もなく、見えたのは薄暗い天井。
壁掛けの時計へと視線を向けると夜の23時を回っていた。
途端に沸き起こる疲労感と後悔。
深い溜息を吐くと、つかさはベッドから起き上がり、なんとなく部屋の扉を開けた。
キッチンの磨りガラスに映る穏やかな明かり。
ノブに手を伸ばし、扉を開ける。
「つかささん、貴方の知る事件の顛末を教えてくれませんか?」
「は…?」
藤堂の言葉に、つかさは眉をひそめながら空になったコップを流しに置く。
起きたばかりだからか、はっきりしないつかさの頭の中を何かが駆け巡る。
「…あぁ。」
不意に思い出したかのように、つかさは藤堂へと視線を向け、それから吾郎を見る。
つかさは複雑な表情を浮かべ、長い溜息をゆっくりと吐いた。
「…ごめん、眠いからそれはまた後で。」
「つかささん!」
要の制止は間に合わず、奮起した藤堂はつかさに詰め寄り、つかさの両腕を掴む。
「ちょっ…痛、い…」
「つかさに何すんねん!」
要はとっさに藤堂の腕を掴む。我に返った藤堂は小さな声をあげてからゆっくりと手を離した。
「すいません…」
それから一歩二歩と藤堂は後退りをし、キッチンの扉に手をかけるとそのまま一目散に逃げ出した。
「ちょっ…藤堂さん…!?」
廊下を走る音と玄関の扉が閉まる音がやむまで誰ひとりその場から動くことはしなかった。
気まずい空気がその場を支配し、ゆっくりと覚醒し初めてきたつかさは長い溜息を吐いた。
「…で、何だっけ?」
「事件の全貌について、だよ。」
「あぁ…」
吾郎はつかさを見ながらくすくすと笑う。
要に関してはただ唖然とつかさを見るだけで、最終的には諦めたように両肩を竦め、煙草に火を付けた。
「…多分、近い内にまた一人死ぬよ。」
つかさが放った思いも掛けない一言に、要と吾郎の二人は息を呑む。
音も立てず、要の煙草から灰が落ちる。
「…何、やて…?つかさ、今何言うた…?」
「人が死ぬよ、って。」
「場所は?」
「分からない。だから止められない。」
出るのはただ溜息ばかりだった。
つかさの第六感とも言えるこの予測は今まで一度足りとも外れたことが無い。
つかさの言葉通り、翌日のニュースでは秋葉原で自殺をした若い女性の件が絶えず取り上げられていた。
秋葉原のビルの上から飛び降りて死亡したその女性の名前は西寺友紀といい、年齢は19歳。
女性が飛び降りたとされるビルの屋上には彼女の靴が揃えて置かれており、遺書にはただ一言『ごめんなさい』と記されていた。
要が驚愕したのはその女性の出身高校を聞いた時だった。
西寺友紀はつかさと同じ高校の後輩であったのだ。
「おいつかさっ、これっ…!!」
事件が取り上げられた新聞を片手に、要が無遠慮につかさの部屋を開いたとき、つかさの姿はもう無かった。
「どこ行ってんねんアイツ…」
男は女を付けていた。
女は怯えるように周りを気にし、素早く病院の中へと入っていく。
男はその後を追う。
二人の様子を物影から見ていた人物。
「あの馬鹿…」
つかさは小さな声で呟くとその背中を見送った。
コンコンッ
静寂が支配した病室。
暫くの間を置いてから中から声が返ってくる。
「…はい。」
その言葉に招かれるように扉は開かれ、身なりの綺麗な中年女性が顔を覗かせる。
手にはピンクを基調とした大人しい切り花。
辺りを気にするように見回してから女性は室内に入って扉を閉める。
「陽子さん…!」
賓客の登場に、アサミはベッドから身を起こす。
「アサミくん事故に遭ったって聞いたから…」
その口調はおっとりとしていて、どことなく琴音に似ていた。
尤も、琴音の方が陽子に比べ癇癪が強い方ではあるのだが。
「…外、出ない?」
「そうですね。」
陽子から受け取った花束を立ち上がったベッドの上に置くと、アサミは陽子に手を差し出した。
「…アサミっ!」
つかさが病室に到着した時、既にそこにアサミの姿は無かった。
ただその場には椅子に腰を下ろした琴音がいただけで、つかさの登場に顔を上げて視線を向ける。
「琴音、さん?アサミは…」
「アサミ…いないの…」
両手を膝の上で固く握り締め、琴音は小さく震えていた。
窓はわずかに開かれ、吹き込む風でカーテンが揺れる。
震える琴音の肩をそっと撫でながら、つかさは覚悟を決めた。
縋るように琴音の手がつかさの服を掴む。
その手をゆっくりと解き、子供をあやすかのように頭を撫でるとやがてつかさは音も立てずに病室を出ていった。
花瓶にも活けずに、ベッドの上に置いてあった花束を見て、誰かが見舞いに来ていたことは一目瞭然で分かった。
『誰か』ではなくその相手すらも。
暗雲立ち込める空は、まるでこの事件の結末を暗示しているかのようだった。
今にも雨が降り出しそうな天候に、看護師達は慌てて屋上に干してあったシーツなどの洗濯物を取り込み始める。
ぱたぱたと世話しない足音を我関せずと、アサミは陽子と共に屋上へと出て来た。
「もうすぐ雨が降りそうだけど…陽子さん洗濯物とかは大丈夫?」
「えぇ、家には息子がいるから。」
年齢でいえばアサミと陽子は親子ほどの差がある。
しかし職業柄、アサミにとって相手の年齢などは関係がない。
アサミにとって陽子は『客』なのだから。
「仕事でもない時にアサミとこうしていられるなんて、夢のようだわ。嬉しい。」
身長はアサミには満たないまでもそれなりに高く、長めの後ろ髪をバレッタで結っているその姿は一目で主婦であると分かる。
ビカッとどこかで稲妻が鳴り、アサミは反射的にそちらを振り返る。
この場にも今にも雨が降り出しそうな天候だった。
「でも…陽子さんが来てくれて嬉しいですよ。陽子さんは俺の心の支えですからね。」
例えその言葉が本心でないとしても、思いを寄せている相手から見れば何よりも嬉しい言葉なのである。
「アサミ…」
ガチャンっ
唐突に響いた低い金物の音に息を呑んで振り返ると、屋上の入口に二人の人物がいた。
一人が一人をコンクリートの地面に押さえ付け、手を取っている。すぐ側には大型の包丁が落ちている。
下になった男は必死にもがき、何とか這い出そうと試みるが、もう一人の膝が男の背中を押さえ付け、手すらも地面に押さえられている。
「つかさっ…」
アサミの言葉に、押さえ付けていた側のつかさが少しだけ顔を上げる。
「早く誰か呼んでこい…」
その訴えは切実だった。
自分の力はいつ尽きるか分からない。そうなる前に応援を求めなければならなかったのだ。
「さ、陽子さん…」
事態が飲み込めず、唖然としたままの陽子の肩を抱き寄せ、アサミは小さな声で促す。
力の差ではつかさより相手の方が幾分か強かった。それが仕方の無い事だとは分かっていながらも、相手がもがく度につかさは押さえ付ける力を入れ直した。
しかし実際は力だけの問題では無かった。一刻も早く陽子をこの場から遠ざけなければならない理由がそこにはあったからだ。
「ね、ねぇアサミ…あれもしかして…」
「アサミっ、早く!」
陽子はもがく度に見えるその見覚えのあるその顔に、恐れもせずに歩みを寄せる。
「陽子さん!そっちじゃない!」
陽子が近づく度に男は大人しくなり、陽子はゆっくりとその顔を覗き込む。
「まさか…」
アサミも息を呑んだ。
「公平…なの…?」
つかさとアサミの高校時代の後輩である牧村公平は、紛れも無く牧村陽子の息子であった。
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