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第七話
要は俯いたまま、ぼそぼそと言葉を口にする。
膝を抱えていた手は爪を立てたのか、片方の手の甲に赤く血が滲んでいる。
「何で俺の事置いてったんや…」
「置いてってなんかいないよ。要寝てただろ?すぐに戻ってくるつもりだったんだけどな…」
一体どれくらい前に気付いたんだろう。
どれ程の時間、一人で暗い闇の中『誰か』の帰りを待っていたんだろう…
薄闇の中、要の肩が小さく震えているのが分かった。
両手を伸ばし、要の頬に触れるとようやく要はつかさへと視線を向ける。
「ごめんね…要。ただいま。」
普段の要ならば、きっと今のように涙でぐしゃぐしゃになった顔を例え相手がつかさであっても見せはしないだろう。
幾ら背が小さくても、かわいらしい顔をしていても要は今年20歳になる男なのだから。
飛び込むように、要はつかさにしがみついた。
小さな震えは未だ止まらず、つかさはその要の背中に手を回す。
よしよしと頭を撫でてやると子供のようにぐずる要の小さな声が聞こえた。
「大丈夫だよ要…俺はお前を置いて消えたりはしないからね」
「ん…」
その言葉を最後に、要は再び眠りに落ちた。
きっと目を覚ませば今の事などかけらも覚えてはいないだろう。
それは付き合いの長いつかさだからこそ知っていることで、つかさだけではなく恐らく吾郎も知っているのだろう。
「ただいまー…って、あぁやっぱり要くん手遅れだった?」
明け方五時。既に日が上ってしまった後にようやく吾郎は戻って来た。
ソファに腰掛けたまま、その膝に要が頭を乗せている。
二人の手はしっかりと握られ、全く睡眠をとった様子のないつかさは空いている片方の手で前髪を掻き上げながら吾郎に視線を向けた。
「手遅れどころか、一足も二足も。」
「ちー、寝なくて平気?」
「…まあ、平気といえば平気。」
要が目を覚ます前に手を離して元いたソファの上に戻しておかなければきっと不審がられてしまう。
何しろ要本人が自分の夜の行動を覚えていないのだから。
かと言って手を離した時や移動をさせた時に目が覚められてもバツが悪い。
要が熟睡している時に行動を起こさなければならないので、つかさには呑気に寝ている暇などなかったのだ。
「今日学校だよね?」
「そのはずだったけど…実習だけのはずだし、出掛けるとこ出来たから。」
「秋葉原?」
「うん」
「そう、行ってらっしゃい。」
この時間になってしまえばもう吾郎ですら眠れない。
自らのデスクの椅子を引くと深く腰掛けてゆっくりと目を閉じる。
彼らにとっての一日が、今ようやく終わろうとしている。
眠りに就いてからどれ位の時間が経っただろうか。
瞼の裏がふいに明るくなり、薄暗かった部屋の中に光りが差し込んだのが分かった。
「いつまで寝てんねんつかさ!もう朝やで!」
要の声だった。
ソファに腰掛けながらもたれ掛かるようにして寝ていたつかさは、頭の中に響く要の明るい声に眉をひそめる。
終始無言のままソファから立ち上がると事務所に備え付けの小さな手洗い場に向かう。
案の定要は明け方の事を一切覚えておらず、つかさが目を覚ましたのを確認すると、光りを差し込ませたカーテンを少しだけ閉める。
手洗い場の蛇口を捻りながら、つかさは正面の鏡に視線を向ける。
目の前にいたのは見知った顔。
無表情のまま向こう側からつかさを見つめている。
いつからこの相手は笑わなくなったのだろう。
気が付いたときにはもう久しく笑顔どころか泣き顔も怒った顔も見なくなっていた。
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