ピグマリオンコンプレックス

1/85
87人が本棚に入れています
本棚に追加
/85ページ
その日は、風の強い日だった。 ひゅうひゅうと笛みたいに音を立て、風が木々を揺らす音がマンションの中まで聞こえてくる。外がそんな様子だから俺は部屋から出なかった。 台風一過の晴天、流石に洗濯くらいはこなさないと……とベランダに出たタイミングが神様の悪戯かというくらい良かったらしい。 それは運命的、と言っても差し支えないほどに。 元々、こういう運には恵まれていた。先日行ったバーでも隣に座った男はやたらとセクシーだったし、一晩だけというのが勿体ないほど良い男だった。 でも、俺は知っている……一晩だけだからいいのだということを。 限られた時間だから燃え上がる恋もある。俺にとって恋はそういう消耗品だ。嫌われるのが怖いからきちんと誰かと交際したこともない、そんな臆病者だった。だから週末の夜だけは大胆に遊んで、見知らぬ男と一晩を過ごすという遊びにハマっていたのだが今日は祝日。明日の出勤に備えて俺はぼうっとしていた。 「こんにちは。僕、隣の秋沢朔(あきざわさく)です」 突然ベランダ越しに隣人から話しかけられた。隣人が何をしている人なのか興味もなかったし、それを知る必要もなかった。そもそも隣には人が暮らしているのだろうか——というのが俺の疑問だった。 ふらりと出て行って数週間姿がなく、他の住民たちのように決まった時間に出勤している様子もない。てっきり、何かの事務所に使っているんだと思っていたその部屋のベランダに人がいたのは、本当に偶然だった。 突然ベランダ越しに挨拶されて、俺は硬直した。 「こ、こんにちは」 綺麗な声だ。溌溂とした、玲瓏で良く通る声。 「洗濯物が飛んで行っちゃって。君の方に飛んで行ったんだけど……」 言われて見慣れたベランダに目をやると、紺色のハンカチが落ちていた。ふうん、隣の人実在していたんだ……そう思って隣に向かって手を差し出すと、ひょっこりその隣人が顔を出した。俺はびくりと身を竦ませる。 「やあ、ありがとう! そう、それ間違いなく僕のだ。イニシャルが刺繍してあるから」 「……どういたしまして」 ———なんという美形。 心臓がドキドキしてしまった、こんな人が暮らしていたなんて知らなかった、いや知っていたところでどうもしないんだけど……。 輝くような美貌だ。形のいい鼻、唇、神様がいい塩梅に作ったお人形さんみたいな造形。無地のコットンシャツに収まったすらりとした体躯。それが子どもみたいに屈託なく微笑んで俺に話しかけているのだから、心臓に悪い。 目の保養、という言葉が浮かぶほどのイケメンだ。 「滅多に洗濯なんてしないから、こういう風の強い日にどうしていいか分からなくって」 「こういう日はベランダに干しちゃいけないんですよ」 俺は少しだけ笑った。 「そっか、ありがとう。またお話しようね」 隣人はそう言っていなくなってしまった。 残念、やっぱり美形はいいものだ。俺はちょっとしたサプライズを受けた気分でウキウキと自分の部屋に戻る。変わった人だったなぁ、と心の中で呟きながら。近所付き合いなんて殆どしていないし、そもそも彼は普段姿を見せない。一体何をしている人なんだろうという俺の疑問が解けるのは、暫く先の出来事だった。
/85ページ

最初のコメントを投稿しよう!