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どんな夢かというと、黒いクジラに食べられてしまう夢……だそうだ。
出来上がった絵は薄暗いのに柔らかいタッチで、まるで大人向けの絵本だ。クジラには痛々しく絆創膏が貼られている。よく見るとこの子、傷だらけだ。
「僕の絵を買いたいという人の中には、僕のパトロンをしたいという人もいるんだけどさ」
「パトロンって?」
「支援者のこと。僕のパトロンだった人は数年間、僕を支援してくれていた」
支援者、という言葉の響きは生々しい。朔は美しい男だ。朔本人を欲しがる人もいるんじゃないだろうか……と俺は妄想する。
愛人にして好きな時に抱く、もしくは抱かれる代わりに自由に好きな絵を描かせる。
「君を好きになったからこそ、枕営業みたいな真似はやめようってパトロンに別れを告げたら……展示会、一つ中止になっちゃった。大きな催しだったんだけどね。彼、そこのスポンサーだったらしいんだ」
話している内容よりも重くかなしい言葉の響きに、辛くなる。
そして目は口程に物を言う。朔の目は楽しみにしていたのに……という悲哀を感じさせた。
「……さみしいもんだな」
「本当にね。でも、よく考えたらおかしい話だったのさ。恋人のフリをして、お金を払ってもらうなんていうのはね」
黙って聞いているしかない自分に苛立った。もっと優しい言葉をかけてやりたいのに、上手い言葉が見当たらない。朔はボサボサ頭のまま話した、美しいこの男は自分の容姿に頓着しないらしい。
以前俺がイケメンくんと呼ぶと、誰のこと? ととぼけた顔をしていた。
「僕は僕の心が分からなかった。絵を描くしかなかったし、周囲にもそれを望まれていた。でも……君と出会ってからは勝手に心が苦しくなって、揺さぶられるんだ」
「恋をするのって、どういう感じなんだ?」
俺は他人事のようにそう聞いた。
「楽しいよ。今まで流されてきたのに、今は僕が自分自身で君の傍にいるんだ。誰かの傍にいたいなんて、初めてのことだよ」
よっちゃんて、すごいね。
朔の言葉はキラキラしていた、本物の輝きを持つ言葉だった。声や視線、態度で彼が俺を好きなのだと分かる。心の読めない俺でも、朔の気持ちが本物だと分かる。
「本当にすごいのは朔なんじゃないか?」
「……えっ? そうかな?」
俺は、いつしか朔のちぐはぐな明るさとさみしさに惹かれるようになっていた。朔は不思議な男だ。今まで出会ったどんな人よりも眩しい。
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