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朔のアトリエから俺たちの住むマンションまではそう時間もかからない。俺はブスっとしたまま、流れていく景色を眺めていた。付けっぱなしのラジオから馴染みのある洋楽が流れている。
「うるさい、お前は人の心が読めるからいいけど、俺はそうじゃない」
「僕には君の心が分かってしまうから、確かにフェアじゃないね」
ごめんね、といつも朔は笑って言う。俺も朔の心が読みたい、でも今日痛いほどよく分かってしまった。朔の恋がどんな色をしているか俺はもう知っている。
淡く重ねられた赤と桃、艶めかしい花びらの色。目を奪われる赤はいやらし過ぎず、けれど確実に目を奪う唐紅だった。色んな赤があることを俺は朔の絵で知る。あの絵一枚で世界が広がったような、逆にどこか絡め取られてしまって不自由になってしまったような——…今日朔の絵を見たことはそんな峻烈な体験だった。
***
近すぎず、遠からず、俺たちの距離は平行線のまま互いの部屋を行き来していた。朔が好きだと言ってくれるそのことに安心しながら、俺からは何も返せない。そういう日々が続いた。
ざく、ざく、ざく。
朔が人参を切る音は、全然リズミカルじゃないし、朔が包丁を持つと怖い。これなら自分でやった方がマシ、そう皮肉を言うと朔は笑っていた。
「料理って面白いね、うまくいかなくて」
「普通、うまくいくって方が面白いんじゃ?」
朔は変わっている。
一緒にご飯を食べようねと誘った癖に自分自身は食事もせずに絵を描くことにのめり込んでいて、二週間ぶりに帰宅して一番にシチューの食材を買い込み、まるで亡霊みたいな姿で俺のところにやってきたのだった。
いきなり現れた朔は無精髭で髪もボサボサのおっさんだったので、俺は一端家に帰してシャワーを浴びさせた。その間に作っておくからと鍵だけ開けておくと、今度は綺麗になった姿で朔は戻ってきた。
「で、どうしてシチューなんだ?」
「カレーは君が可哀想だし、他に作ってくれと言って即席で作れるような料理が僕には分からなくてさ」
「ふうん。確かに、あれ以来カレーは食べてないんだ」
「そうだろう。僕が同じ目に遭っても、トラウマになってしまうと思うんだ。でも、君は辛い目に遭ったのに負けなくて偉いね。自分で料理して」
「トラウマだから自分で作るしかないんだろ」
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