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朔といると気楽だ。グイグイ自分から寄ってくる癖に、朔は俺のことを口説いたりしない。ただ親切にしてくれて、仕事の愚痴や体調のことを聞いてくれた。
思えばその気楽さに胡坐を掻いたまま、すっかり俺は安心しきっていたのかもしれない……ずっと朔は傍にいるんだって。好きでい続けてくれるんだって。
ある日会社帰りにスマホに目をやると、朔からの着信が入っていた。朔はこうして時々俺を誘ってくれて、外に出かけて飲んだり、食事をする。映画を観に行ったこともあった。
「ねえ、よっちゃん。良いワインがあるからウチで飲まない? あっ、別にいやらしい意味じゃないよ」
「なんだよいやらしい意味って」
「下心はあるけど、別に君は気にしなくていいよってこと。つまみはどうする、商店街の店で買ってこようか」
「ん、じゃあ俺が買っていく」
俺はなーんにも考えていなかった。ただ呼ばれたから朔の部屋に向かっているだけ。仕事終わりに色々買い物をして、俺はスーツのまま朔の部屋に向かっていた。
空は幕を張ったような紺色で、そこには白くて鋭い月が浮かんでいた。俺は気持ちを明るくさせようと努めていた。今日もまた職場で苛々してしまって、何をしていてもつらかった。かつての取引先が俺の話を聞いて見舞いにとお菓子をくれたりするのも億劫だったし、「お気の毒だね」と挨拶代わりに言われるのも嫌だった。
でも、明るくしようとすればするほどうまくいく筈もない。俺はそれを朔に見抜かれていた。
「おお、君の心とってもどす黒い。どうしたの?」
朔の目はもはや、亡霊を見ているかのようだった。憐憫に満ちた目で見られて俺は固まった。
「もう、駄目かも。会社、今週だけ休暇を貰ったんだ」
「だから今日は平日なのに飲めるんだ」
「そう。でも、どうしていいか分からなくて」
「休み、嬉しくないの? よっちゃん、特にしたいことがない?」
「……ない」
それが大問題だった。趣味と言えば週末にバーに行ったりマッチングアプリに登録して長く続かない相手と恋人ごっこをするくらい。俺に人に言えるような趣味はなかった。
「ううっ……趣味もないし、仕事終わりにすることがお前と酒を飲むくらいだなんて。これじゃ隠居した爺さんだ」
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