ピグマリオンコンプレックス

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遅めの昼食だったせいか食堂はいつもより空いていた。座ったことのない窓際の席に書類を置いて、俺は食券を買いに行った。 今日はなんにしよう。たまにはフライもいいけど、アジか。日替わりが唐揚げ定食だったら迷うことなんてなかったのに。仕方ない、無難なカレーにするか。 おばちゃんがオマケにポテトサラダを付けてくれてラッキーだったし、仕事も今日は何事もなくうまくいっていた。この様子なら久しぶりに定時で上がれるかも知れない。俺はまだこの時、希望でいっぱいだった。 思えば、そんな小さなラッキー達はこれから大変な目に遭う俺を神様が憐れんでくれていただけのことなのかも——俺はその日、カレーの味すら良く分かっていなかった。 ちょっと苦いけど色んなスパイスが効いた本格派なんだな。今日中にまとめなければいけない営業データに目を通しながら片手間で食べていたから、味の異変に気付かなかったのだ。午後になって俺は吐き、立ち上がれなくなった。 俺は後輩の榊原の車で職場の近くの総合病院まで運ばれた。即入院、胃洗浄。カレーには大量の風邪薬が混入されていて、処置が早かったから助かったのだと聞いた。幸か不幸かあのカレーを食べたのは俺一人。いまいちピンと来ていなかった。 警察の聴取を受けていた思い出したことは、食堂に入る時顔つきの暗い男の人とすれ違って、わあ、あの人疲れ切っているな……可哀想に、と思ったそいつこそが犯人だったらしい。 「時友さん。大変でしたね」 翌日、後輩の榊原がお見舞いに来てくれたとき、俺はすっかり回復してベッドから起き上がりパソコンでメールチェックをしていた。上司からのメールには「ゆっくり治してください、災難でしたね」という優しい言葉。その一つ一つに目を通しながら、事の重大さに気付き始めたタイミングだった。 「もう仕事しているんですか?」 「いや、メールを見ていただけだよ」 後輩の榊原は素直で真面目な青年で、俺に良く懐いてくれていた。俺の引継ぎで営業部にやってきてくれて、俺の代わりと言うには申し訳ないくらい榊原の方が営業に向いていて成績もよい。それでも榊原は俺のことを馬鹿にする様子もなく、引き継ぐまでの少しの間面倒を見ただけの俺のことを先輩として扱ってくれているいい奴だ。 「命が助かって本当に良かったですね、先輩。もっと強い薬物だったら助からなかったかもしれない。病院の処置が早くて助かった」
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