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「お前が病院に送ってくれたからだよ、本当にありがとう」
「しかし、すっかり有名人ですね」
「……ほんとに。でも、すぐ収まると思うよ」
職場に復帰したのはそれから五日後だった。
初めは誰しもが俺に注目し、誰が一番に声を掛けるかという絶妙な駆け引きさえ生まれていた。質問攻めにされたりただ歩いているだけで「ほらあの人……」「あれが毒カレーの人でしょ……」とヒソヒソ話をされたりもしたが、俺は元気だった。元気であろうと必死に努めていた。
思えば、それがいけなかったのだと思う。
普段目立たない自分が注目され続ける、そんなことがストレスでもあったし非日常でもあった。ただ日常に戻りたくて勇気を出し馴染みのおばちゃんに食券を差し出すと、いいの? と何度も確認された。ただ社食でうどんを頼んだだけで勇者みたいに扱われる。
そんなことを繰り返しているとあの人はもう普通に戻ったんだという認識が周囲に広まって、俺はようやく「社食のカレー混入事件」の被害者ではなくなった訳だった。
どんどん日常が戻ってきて俺はホッとした。
「時友くん、無理をしているんじゃない?」
上司の須藤さんが食堂に現れて、そんな心配をされた。
「そ、そんなことはありません。病院からも退院許可が下りたし、この通り普通に食事もしていますよ。ほら、天ぷらそば」
須藤さんは俺が嘔吐したときにたまたま傍にいて嫌がらず世話を焼いてくれた人だ。俺が営業をしていた頃には天敵で、毎日俺を叱りつけていた上司だったが俺が営業でなくなっても須藤さんは目にかけてくれている。
「本当なんだろうね?」
「……はい、もう身体はすっかり大丈夫なんです」
無理矢理、自分自身に言い聞かせるように答える。
「そういうものなのかな。こう言うとアレだけど、君は被害者な訳だろ」
自分の内側以外のものは確かに元に戻っていくし、俺の目に入るものも以前と変わらない。犯人の川畑さんだって逮捕されたんだから、もうあんなことはないだろう——大丈夫、きっとなんてことはない。
それが自分にとって何が必要なのかを理解しないままジャングルに突っ込んで冒険しているような無謀さだったのだと気付いたのは、半月ほど経ってからのことだ。
「……君、大丈夫?」
ベランダの向こうで隣人の秋沢朔が俺に向かって言う。
「大丈夫って?」
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