ピグマリオンコンプレックス

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「あんなことがあったのにもう働いていて、顔色も良くないし、無理をしているんじゃないかな?」 俺は最近、ずっと苛々していた。表面上どれだけ取り繕っても営業部からの無茶な注文だとか仕事そっちのけで喋っている初老の上司、仕事上のどんな些細なことにも胸がムカムカして、とにかくだるかった。本当の俺は何もしたくない、眠っていたい、と叫んでいた気がする。 「仕事を休んでいたんだから、休み明けに無理をするくらいどうってことないよ」 あんたは画家なんていう自由業だからわからないだろうけど——…と内心では付け加えたくて仕方なかった。 家族とも疎遠、友達も恋人もいない俺の苛立ちは唯一交流のあった隣人へと向けられてしまった。 「犯人、捕まったんだってね。良かったよ」 「……元々俺と同じ営業部にいた人だったんだ。取引先との飲み会でセクハラしたとかどうとか、問題になって。それで辞めさせられた腹いせにやったんだって」 説明しているうちに俺はどんどん悲しくなっていってしまった。 事実がどうであれ、調理場に忍び込んでありったけの風邪薬を仕込む、ただそれだけの為にあの明るい食堂までやってくる。訳の分からない怒りと憎しみに駆られて、俺を病院送りにした。本当はもっと沢山の社員を巻き込む筈だったのかも。そのすべてがなんて途方もなく悲しい所業だろう。 俺がしょんぼりしていると、隣人もベランダ越しに項垂れているように見えた。 「ねえ、きちんと食事は摂れている?」 「……あんまり」 秋沢朔はなんと、画家なのだという。 お仕事は何を、と聞いて画家だと言われたのは初めてのことだった。そもそも、本気で絵で生計を立てている人と出逢えるなんてビックリである。 普段はアトリエに籠っていて、住居である隣の部屋に戻ってくることは少ない。でも、俺が体調を崩してからはタイミングが悪いことに毎日のように会う。彼はこうしてベランダ越しに話しかけてきた、ゴミ捨てで会うと差し入れをくれたりする。今日もゴソゴソ、と物音がしたと思ったら彼の綺麗な手が伸びてきた。ふわりと甘い匂いがして俺は顔を上げた。 「……苺?」 俺は彼に対して不機嫌さを隠さなくなっていった。ベランダ越しに貰ったとちおとめの苺はピカピカと光っていて美味しそうだ、それなのに俺の態度は殆ど悪人と言っても差し支えないほどふてぶてしい。
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