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「僕、苺がとっても好きなんだ。だから君にもどうかと思って」
「……どうも、ありがとうございます」
泉が沸くようにこんこんと俺の怒りは消えない。アクセル全開で職場復帰してしまった手前、休みたいなどと言える雰囲気ではなくなってしまった。
俺は必死にがんばって御礼を言う、低く、ドスのきいた声で。
「君の頭の中、今ものすごくグチャグチャしているだろう? それを吐き出せなくて困っているんじゃない? あの、もし僕で良かったら話を聞くから……」
この変り者の隣人にまで気遣われているのだということが何故だか辛くて、俺は溜息を吐いた。隣人は隣人のままでいて欲しかった、いつも通りボサボサ頭でベランダ越しに挨拶するくらいでいい。なんにも知らない人でいい。
「どうしてわかるんだ? 何も知らないあんたに、そんなこと」
「……えっ。どうしてって、分かるんだもの。君の心の中、今黒い毛糸がこんがらがっているみたい」
まるで見てきたように彼が言った。
俺の中に漠然とした形であったイメージが確立された瞬間だった。今日は天気も良いけれど、風が冷たい。ベランダにいると手足が悴んでくる。
冬は嫌いだ。寒くて、さみしくて。
「実家に帰ったりだとかはしないのかな? こういう時、ひとりでいるのはあまりに辛そうに見えるよ」
冬に染み付いた悲しいイメージが、こびり付いて離れない。俺はふと母親のことを思い出していた。
「母親はいるけど、そこまで連絡を取ってないんだ。とんでもないろくでなしで」
俺は特に包み隠さずそう答えた。空気が震えた気配がして、彼が微笑んだのだと分かる。
「ほう、君のところはお母さんがろくでなしなのか。僕のところは父親がおかしな人でね」
「ふうん、あんたもなのか。大人なんだから、まあ、自分でなんとかしないといけないよな」
俺の母親がアルコール中毒だったということを知ったのは大人になってからで、日がな一日母親は酒を飲んでいた。俺は当時まだ幸福だったんだと思う、それが当たり前のことだと思っていて、おかしいとすら感じていなかったのだから。
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