ピグマリオンコンプレックス

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「……なんでウチにコップがないってわかったんだ?」 「なんとなくだよ。君、お客さんを招くようなタイプには見えないから」 秋沢朔は自分の部屋から高そうなクッキーも持参してくれた。宝石箱みたいなビジューのついたケースに入っているお菓子、未開封なところから察するに貰い物だろう。中にはアーモンドやジャムのクッキーが入っていて可愛らしい。 「僕のことは朔でいいよ。僕も君のこと、よっちゃんて呼ぶから」 「よっちゃん?」 「君の名前、時友芳樹(ときともよしき)だろ? ポストに名前が書いてあったから知ってるよ」 変なあだ名を付けられて俺は言葉を失った、まあ、でもいいか。他にあだ名を付けてくれるような人間もいない、俺はいつもぼんやりと孤独を好んでいたから。 「朔、珈琲に砂糖とミルクは?」 「入れて欲しいな、僕は甘党なんだ」 どうして朔を部屋に呼んでしまったのだろう。 変人だと小ばかにしていたけれど、だからって彼のことを嫌いな訳じゃない。この辛い時期に明るい性格の男が隣にいることで、俺は草木のように光合成したいのかもしれなかった。俺みたいな人間にはこういう明るい奴が必要なんだろう。 「まだだるそうだね、可哀想に」 可哀想に、誰しもが思っていても口にしなかったことを朔は口にした。 「まだ肝臓の働きが悪いみたいなんだ。解毒に時間がかかるのかも」 「内臓は目に見えない分、治すのももどかしいよね」 まあ、もう可哀想でもいいか、という気分になってきた。 変なプライドや意地があって心身ともに健康を取り繕ってきたけれど、どうやら俺の身体はともかくとして心は限界のようだ。だって、その証明にこれまで関わりのなかった隣人の部屋でお茶を飲みながら雑談している。しかもそれが楽しいとは。 朔の存在は今の俺には、だいぶ有難かった。 「病院に行くと君のような人が沢山いるよね。見た目には分からないだけで心の方が重傷で、完治しないというか」 朔はじっと俺のことを見つめていた。それが好奇心で爛々としているというのではなくて、本当に心配なんですという様相だから俺も見るなと責められない。 朔の瞳は不思議なことに、俺だけでなく俺の内面も視えているかのようだった。
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