ひだまりの虜

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夏が近づいていた。 あれからずっと、僕は毎週木曜日にカフェでひとときを過ごしている。相変わらずマスターは僕を優しく包んでくれて、コーヒーの香りで起こしてくれる。 「おはよう」 マスターは僕の前髪を優しくかきあげて、額にそっと口づけた。寝ぼけ(まなこ)の僕は、子どものように彼に甘えた。 「…コレは、他の人にはしないで?」 「心外だな。そんなふうに見えるか」 その笑顔は、僕にこれまでにない幸せをくれた。 もうすぐ誕生日だというマスターのために、僕はお礼もかねてプレゼントを買いに出かけた。(にぎ)やかな場所は久しぶりだ。 以前は人混みに酔うみたいに気分が悪くなっていたけれど、今は目にするものが大袈裟(おおげさ)ではなく、きらきらと輝いて見える。 自分とかけ離れた世界だと思っていた景色の中に、自分が苦もなく溶け込んでいるのが嬉しかった。 『あなたから頂きたいものがあるんです』 そう言えば、あれは何のことだったんだろう お金ではないみたいだけど… デパートの紳士服売場で、小物を見ている時だった。 見覚えのある男性が、僕をじっと見つめているのに気がついた。 「先輩」 僕は彼に歩み寄って声をかけた。 先輩は驚いた顔をしたが、すぐに笑顔を見せた。 「…久しぶりだな。体調はどうなんだ」 「相変わらずですけど、最近は少しだけマシになりました」 「そうか。それならよかった」 「パパー!」 小さな女の子が駆け寄ってきて、先輩に抱きついた。 「ママがあっちで待ってるって。ねえ、おもちゃ買ってくれる約束でしょ」 「…あ、ああ。そうだったな」 「可愛いですね。おいくつですか」 僕が尋ねると女の子が指を3本出した。 先輩は僕から目を離さない。 「先輩に似てますね」 「…うん。よく言われる」 先輩はなぜか戸惑っている。 僕、何か変かな 久しぶりに会って浮かれてるのかな 「じゃあ、また皆で飲みましょう」 少し恥ずかしくなって僕がそう言うと、先輩は思いきったように口を開いた。 「あの時は、悪かったな」 「あの時…?」 先輩はまた口をつぐんだ。 何か口にするのを躊躇(ためら)っているみたいだ。 どうしたんだろう 先輩らしくないな 僕は先輩の肩をぽんと叩いた。 「僕、先輩の笑顔が凄く好きでした。だから、いつも笑っててくださいよ。侑哉先輩」 「…ありがとう」 まだぼんやりしている先輩と、笑顔の娘さんに手を振って、僕はエスカレーターの方へ歩きだした。 「…先輩って、やっぱりカッコいいよな」 昔憧れていた先輩に会えて、とても嬉しかった。 僕は彼と並んで歩きたくて、精一杯の背伸びをしていたけど、結局彼には追い付けなかった。 淡い恋心を抱いたこともあったっけ ただの先輩後輩の関係で終わっちゃったけど… でも、今はもっと大切に想う人がいる。 そして、その人も僕を待っていてくれる。 そのことを思い浮かべるだけで、自然に頬が(ゆる)む。 「珍しいコーヒー豆でも買っていこうかな」 僕は地下へ降りた。 専門店の柔らかいコーヒーの香りが、僕を包み込むように迎えてくれた。
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