ひだまりの虜

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木曜日の昼下がり、僕は窓際のいつもの席でガラス越しの太陽の温かさに包まれていた。 毎晩のようにやってくる憂鬱も、明日への不安も今は何も怖くない。夢うつつの浮遊感に優しく(すく)い上げられて、僕は水面(みなも)に浮かぶ1片の木の葉のように揺蕩(たゆた)う。 テーブルにクッションを置いて、抱え込むように微睡(まどろ)んでいた僕は、(かす)かな気配を感じていた。 …ああ 起きる時間だね それは青空の(もと)、木立のてっぺんをそよそよと揺らす優しい風のように、さりげなく僕を見守りながらそうっと、そうっと近づいてくる。 寝た子を起こすような不愉快さは微塵(みじん)もない。 その感覚に、小さな新芽は光を求めて少しずつ力を(みなぎ)らせ、僕の体は芽吹いて若葉を地上へ伸ばす。血液が指先までちゃんと(めぐ)り始めるのがわかる。 彼が運んでくれるコーヒーの香りが、鼻をくすぐる。 今日はブルーマウンテンだ。 清々しさの中にも馥郁(ふくいく)とした香りと、芳醇(ほうじゅん)な存在感。なかなか(あなど)れない破壊力がある。 しつこい睡魔も、これには舌を巻くことだろう。 テーブルにカップを置く音がした。 僕はゆっくり目を開ける。 カップから白い湯気が立ち上り、彼がいつものように微笑んでいた。 「おはよう」 「おはようございます」 時刻はもう夕方に近い。 それでも今の僕にはこの挨拶がぴったりだ。 彼もそれを理解してくれていることが、これから始まる安寧(あんねい)な日々へと僕を(いざな)う。 僕は体を起こした。 また新しい1週間へと、足を踏み出すために。 物心ついた頃からずっと、僕は上手く眠ることが出来なくて、いつもどこかに不安を抱えていた。 朝は顔を洗ったり、朝食を取ることで、少しずつ目覚めていったが、午後は必ず睡魔と対峙(たいじ)することになる。そして、勝っても負けても、また憂鬱な夜がやってくる。 今日は眠れそうだ そう思って眠りについたとしても、それは数時間後にはあっけなく裏切られる。夜明けにもならないうちから僕は覚醒して、再び眠ることなくそのまま朝を迎えるのだ。 睡眠欲は食欲、性欲と並んで、人間の三大欲求のひとつだと言われている。 それだけに睡眠障害に悩む人たちは、何とか良質な睡眠を確保して、健全な生活を送りたいと思っていることだろう。 寝つけなくて睡眠導入剤に頼る人もいる。 眠りが浅くて困っている人もいる。 眠れないほどの悩みを抱えている人は、数えきれないくらいいるだろう。 だけど、その中でも『絶対的に』眠れない人はほんの一握りだ。 僕も初めはその違いがわからなかった。 知らなかったがゆえに自分を責め、自己嫌悪に陥ってまた眠れなくなる。 薬もサプリメントも効果はなかった。 そんな日々を繰り返しているうちに、膨大な睡眠負債を抱え、あの頃の僕はすっかり擦りきれてしまっていた。
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