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ちょうど半月ほど前のこと。
僕の我慢は限界に達していた。
仕事もままならず、とうとう休職を申請した。
毎日睡魔と戦い、夜に眠るために昼間は起きていなければと、強迫観念に駆られていた僕は、天気がよければあてもなく散歩に出かけていた。
『ラ・シエスタ』
眠気覚ましのコーヒーを頼もうと、名前に惹かれたそのカフェに、ふらっと入った時のことだった。
午後2時過ぎだったから、店内は数席が埋まっているだけだった。
僕は陽当たりのいい窓際の席を選んだ。
店の奥のソファ席で、若い母親たちが遅めのランチを取っていた。子どもはまだ赤ん坊とも言えるくらいに小さくて、彼女たちの片腕に抱かれてすやすや眠っているように見えた。
自分のコーヒーが運ばれてきて、ひとくち飲んだ時だった。
赤ん坊の一人が愚図りだしたかと思うと、火が付いたかのように大声で泣き出したのだ。
寝不足の頭に響くその声は、鈍い痛みを誘発させて正直キツいものがあったが、相手は子どもだ。仕方がないとため息をこぼした。
ところが、母親は子どもをあやすどころか、話に集中できないことにイライラし始めた。彼女は片手で子どもの胸の辺りをぞんざいに叩いて、寝かしつけようとした。その合間にも友人の会話に頷き、気持ちはその話の方に取られてしまっている。
子どもは母親の不機嫌を敏感に感じ取り、ますますヒートアップする。
「さっきやっと寝たばっかりなのに、何で起きるんだよ。寝てろよ」
苛立ちとともに吐き捨てたその言葉に、僕は腹の底から沸き上がるような嫌悪感を覚え、睨み付けるように彼女たちの方に顔を向けた。
僕の視線を遮ったのは、マスターの広い背中だった。
まるで喧嘩を仲裁するかのように、いや、今思えば、もしかしたら僕を庇うかのように、彼女たちの前に立っていた。
「ずいぶんと、ご機嫌ナナメですね」
穏やかな声でマスターが話しかけると、母親はさすがに申し訳なさそうな顔になった。
「すいません。いつもはここまでじゃないのに…」
「赤ん坊は泣くのが仕事ですからね。仕方ないですよ」
僕の方からは表情が窺えなかったが、マスターの口調と背中からは、彼の口元の笑みが透けて見えるような気がした。
不意にマスターは、泣き続ける子どもの頭上に右手をかざして、包み込むように額にそっと掌を当てた。
何をしているんだろう…
僕が怪訝に思っていると、彼の優しい仕草に赤ん坊が泣くのを止めた。そして店の中は、恐らく彼女たちが来る前の時間を取り戻したかのように静かになった。
すすり泣きひとつ残さないまま、赤ん坊はまた眠りについたようだった。僕はそれが少し羨ましくて、魔法のような彼の掌に触れて欲しくなったのを覚えている。
僕は再び訪れた静寂にほっと胸をなでおろし、またコーヒーと向き合った。
「…ありがとうございます」
母親の小さな声が聞こえてきた。
彼女たちのお喋りも鳴りを潜め、僕は眠気と戦いながらコーヒーを飲み干した。
読んでいた文庫本を閉じて、ため息をついた。
これで夕方までは大丈夫だろう…
あの頃の僕は、睡眠のサイクルを確立させるのに必死だった。
恋人に待ちぼうけを食わされたように、夜にはちっとも訪れない睡魔が、本来は活動的なはずの昼間の時間帯に、いとも簡単に僕を唆す。
ここで眠ってしまったら
また今夜も眠れずに過ごすことになる
その思いだけが、何とか僕を奮い立たせていた。
真夜中に静まり返った空間に一人きり。
普段は聞こえない微かな物音に、僕の聴覚は研ぎ澄まされる。挙げ句の果てには、静寂の中にあるはずもない音を探し始めてしまう。
ほら
何か音が聞こえる
おかげで眠れないじゃないか
そうして他の何かのせいにすることで、僕は無意識に自分を守っていたのだと思う。
得体の知れない不安に追われて、延々と歩き続けながら。
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