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お会計をするために僕は立ち上がり、入り口にあるレジへ向かった。いつの間にか店の中には僕だけになっていた。ふと気になって、奥のソファ席をぐるっと見回した。
あの子はゆっくり眠れただろうか
さっきの赤ん坊を思い出した。
まだ自分の気持ちを、笑うことと泣くことでしか表現できない、小さな存在。かつては僕もそのうちの一人だった。
今はもう、大人と呼ばれる歳にはなったけど、僕は未だに気持ちを伝えることが下手なままだ。
あの時、侑哉を引き留めることが出来ていたら…
後悔は今でも僕を動揺させる。
それでも僕と一緒にいるより、今の彼は幸せに過ごしているだろうとも思う。自分が身を引き裂かれるようにつらくても、僕が彼のそばにいることは、きっと叶わないことなのだ。
不意に溢れ出した感傷に囚われて、僕がぼんやり立ち尽くしていると、マスターが声をかけてきた。
「お代わり込みで800円ですね」
「…あ、はい」
夢から覚めたように僕は鞄の中を探り、財布を取り出した。小銭がなくて千円札をマスターに差し出した。
「すみません。細かいのが…」
言葉が途切れた。
マスターの掌が僕の額に当てられていた。
大きくて肉厚な感触に思わず目を閉じた。
額だけでなく、瞼まで覆われているのが感じられた。
何よりとても温かくて、僕の全てを包み込んでくれるようだ。
初対面の男性にそんなふうに触れられてほっとするなんて、僕の個人的な事情がそうさせたのは想像に難くない。
でも、それを差し引いても彼の手は、暗い夜の底から明るい光の下へ、僕を引き上げてくれたのだ。
僕は彼に体を預けるように、肩の力を抜いた。
しばらくして彼が手を離したので、僕は目を開けた。
柔らかい笑顔が僕を見つめていた。
「…どうしてわかったんですか」
「どうも私は、眠れなくて困ってる人を見つけるのが得意なようでして。ですから、あの子のこともあなたのことも放って置けなかったんです」
「お店の名前はそこから…?」
シエスタはフランス語やスペイン語で昼寝、うたた寝という意味だ。
マスターは嬉しそうに頷いた。
「ほんのひとときでも、皆さんに寛いで欲しいと思いましてね」
さっきまで僕の中にあった、追われているような焦燥感が姿を消した。
「凄く楽になりました。ありがとうございます」
「それは良かった」
マスターはお札を受け取って、お釣りを僕に手渡した。百円玉は、僕の掌に少しひんやりとその重みを預けてきた。
「明日、またいらっしゃいませんか」
「え、でも…」
見かけた看板には、木曜日は店休日と書いてあったはず。
「あなたの貸し切りにしますから」
「そんな、ご迷惑じゃないですか。せっかくのお休みなのに…」
「来るべきですよ。もうずっと眠れていないのでしょう」
彼はきっぱりとそう言った。
「迷惑なら誘ったりしません。それに、明日もお天気が良さそうですし」
「カフェに来るのに、天気が関係あるんですか」
彼はふふっと笑った。
「来たらわかりますよ。お昼にいらしてください。ランチも用意しておきますね」
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