菜種梅雨の後で

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菜種梅雨の後で

 桜が散って一か月が過ぎた。  初夏の陽気の後、しばらく菜種梅雨が降り厚手の長袖をあわてて探す。  午前中の六本木は割と空いている。  今日は祝日。  ビジネスマンはまばらで、長袖シャツやトレーナーといったラフな恰好で歩く人たち、家族連れが目立った。  イベントのサイネージがあちこちにあって、どこに行こうか目移りしてしまう。  歩道が広く、歩いて移動するには余裕がある。  ここが朝のラッシュ時間になると人で埋め尽くされるのだ。  正面からも横からも速足の人間が肉のミサイルのように襲ってくる。  避けそこなって肩をぶつけると、謝ってそのまま通り過ぎていく。  体力がある男性なら当たり負けしないが、女性は吹っ飛ばされることもある。  普通の人生を望んでも、いつの間にか朝から死に物狂いの競争に放り込まれるのである。  今日は街路樹の影が長く見え、足元のブロックの艶を感じてまるで違う場所のようだった。  高層ビルが立ち並ぶ下を、留依(るい)は職場の友人と歩いている。  ショッピングにつき合ってほしいと言われ、他に用事もなかったので出てきたのである。  視界の隅に勤務先が入っているオフィスビルが見えてしまう。 「休日にも会社の近くにいるなんて、素晴らしい社員よね」  ため息交じりに言った。 「まあ、秘書の宿命ね」  別に使命感からここにいるわけではないが、他の場所を知らない。  毎日全力で仕事をしているので、休日もリラックスして息抜きする気分にならなくなっていた。 「私、最近疲れを感じなくなってきたの。  これって、ヤバいんじゃないかな」  交差点にさしかかり、信号待ちをする。  目の前には巨大な高層ビル。  最早上を見上げる余裕もなく、目的地にまっしぐらに向かった。 「ちょっとね、新しいスキーウエアを新調しようと思ったの」  (あい)の言葉は意外だった。 「えっ」  面食らった留依は愛の顔をまじまじと見た。 「あら、意外って顔に書いてあるわね。  私、スキーが趣味なの。  ホントはあなたにもスキー仲間になって欲しくて誘ったのよ」  まったく知らなかった。  職場では私事を話す余裕がない。  いつも社長の傍にいて、さまざまな要求に応えていく。  時には先回りして、社長が望むことを察して動かなくてはいけない。  そんな中で自分のことなど後回しだった。
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