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秘書の仕事
地下駐車場の停めた黒塗りのレクサス。
後部座席から降りた男は、どっしりとした足取りで警備室へ向かった。
ドアを閉めた留依が、小走りで追いかけながら、
「朝会の後、役員会、11時から講演依頼がありますがいかがしますか」
「講演はキャンセル。
やる義理はない」
㈱太田洋商事代表執行役社長、祇園寺 雄造の鋭い眼光が向けられた。
息を飲むほどの威圧感を涼しい顔で受け流し、
「ではキャンセルいたします。
昼食までいかがいたしますか」
「社内を巡回する。
個人情報漏洩の噂が流れている。
もし動きがあったら、1時間以内に手を打ちたい」
「わかりました。
役員会の議題にいたします」
「わかっているだろうが、社員には知らせるな」
朝っぱらから、こんなやり取りがある。
社宅にレクサスがつけられた時点で、身体が戦闘モードになっている。
判断を一つ間違えれば、会社がひっくり返る。
責任と重圧を気合いで押し返して小走りに進む。
「おはよう。
今日も朝から暑かった。
世の中、景気が冷え切っているというのにな。
リスクがある時こそ、商社マンの腕の見せ所だ。
チャンスを見逃さないよう、目を光らせてほしい」
今日はファッションアパレル部門のオフィスに顔を出した。
間接照明でムーディーな中、机は丸テーブル。
壁際にはカウンターバーまである。
商社のオフィスといえば、課長のデスクが窓際にあって四角いデスクで島を作る。
そんなイメージは昭和の発想である。
働き方改革、パワハラ、ニュースを賑わすワードの対策が、このような形で表れている。
そして深刻な人手不足。
商社の総合職をやりたいなどと憧れる者は少ない。
どこの会社でもあの手この手で工夫するのである。
社員は直立不動で見送った。
廊下に出ると、奥から貫禄のある男が歩いてきた。
「やあ、長船さん」
祇園寺を見止めると弾かれたように壁際へ飛び退いた。
「今度、またやろう」
手で麻雀パイを持ち上げる仕草をした。
臙脂色の絨毯は毛足が長い。
壁は白塗りでシンプルだが洗練された印象があった。
すべて祇園寺の考えである。
代表執行役になってから、社内環境を改善し働きやすくした。
メンタルヘルスを問題視していたが、お陰で採用試験の倍率が跳ね上がり、雑誌でも「働きたい会社ランキングベスト3」の常連だった。
長船から3メートルほど離れたところで身をそらせ、同じ姿勢をとる女性がいた。
「愛ちゃん、おはよう」
心の中で挨拶して視線を合わせた。
お互い顔はニコリともしない。
留依は今朝から身体がだるかった。
月曜日の朝はエンジンがかかりにくい。
声に出して言ってしまうと気持ちが切れてしまうかもしれない。
仕事中、ここまで緊張を強いられる生活に、慣れてしまっている。
社長秘書が疲れた顔をしているだけで社内の士気に関わる。
弱音は吐けなかった。
昨日たくさん話したせいか、目を合わせただけでお互いの気持ちをわかり合った気がした。
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