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一話
芳乃は手拭いを川に浸し、水気を絞ってから額の汗を拭いた。首に当てると、ひんやりした感覚が身体の火照りを吸い取ってくれる。
彼女はふう、とため息をついた。
周囲は深い森である。真昼のためそれほど暗くはないが、一人なら心細くてたまらなかっただろう。延々と続く自然に呑み込まれそうな気持ちになる。
早々に駕籠へ戻って、今日中に森を越えなければ。乗り物に腰を下ろしているだけとはいえ、疲労を感じて気が進まない。
けれど観念して立ち上がった。ゆるい坂の先に駕籠を待たせている。
歩を進めて、木々の向こうに運び手たちがくつろいでいるのが見えたとき、芳乃の背後でガサガサッと草むらをかき分ける音がした。
驚いて振り返ると、背の高い男がぬっと目の前に現れ、彼女は反射的に悲鳴を上げかけた。だが口をふさがれ、肩を木の幹に押しつけられる。
芳乃はうめいて暴れたが、今度は腕をがっちりつかまれる。相手を振り払うことができないと感じて、恐怖に見舞われた。
震えて身体を縮める彼女に、男が抑えた声で警告した。
「声を出すな。あいつらに気付かれる」
芳乃は、なにを言っているんだろう、と困惑した。
彼は、彼女の口を覆った手を下ろし、張りつめた表情で駕籠のほうに視線を向けた。同じように眺めると、山から剣呑な雰囲気の男たち数名がやってきた。各々、刀や弓を手にしている。
運び手らは襲撃に驚き、情けない声を上げて逃げ出した。賊はそちらに興味を示さず、駕籠に金目の物がないか探し始めた。
もしあの場にいたら、と芳乃はぞっとした。かたわらの男が小声で言う。
「次に、誰かが乗っていたんじゃねぇかと疑うだろう。隠れてやり過ごすぜ」
「は、はい……」
青ざめる彼女の手を取り、男は賊のいるほうから離れる。
途中で川を渡り、道なき道を下っていく。でこぼこの地面に芳乃の息は上がったが、賊に見つかる恐怖から、なんとかついていった。
崖下のくぼみで揃って身を隠す。賊は近くまで探し回ったものの、うまく死角になったらしく、獲物はいないと去っていった。
それでも二人はしばらくじっとしていた。やがて男が、警戒をといた様子で息をついた。
「どうやら嗅ぎつけられずにすんだ」
芳乃はひとまずほっとした。くぼみでへたり込んだまま、男が周囲を確認するのを見上げる。
彼は旅装姿で、笠の紐を帯にくくりつけていた。短い髪をひとつに結い、前髪は無造作だ。素性が分かりにくい雰囲気だった。
しかし、自分を助けてくれた人だ。
「ありがとうございます。あの、あなたは……」
「おれは武芸者で、家へ戻ることになって、北上する途中だった。この山で賊が出るとは聞いていなかったがな。おまえは」
「縁談がまとまって嫁ぎ先に向かうところです。駕籠は安全な道を行くという話でしたが……。あなたのおかげで命拾いしました、感謝します」
「しかし、運び手が戻ってくるのを待つわけにもいかねぇだろ。どうする」
芳乃は途方に暮れた。ある程度の手持ちはあるが、付近でべつの駕籠を雇えるはずもない。
自力で山を越えなければならない。女の足では幾日もかかるだろう。
賊が徘徊し、獣と遭遇する可能性もある。無事に麓へ下りられるとは思えなかった。
選択肢はひとつしかない。彼女は男に頼んだ。
「どうか、お力を貸していただけませんか。手持ちはすべてお渡しします。事情を話せば、先方も実家も謝礼を出してくれるはずです。足手まといになるのは心苦しいのですが……。あなたにお縋りするしか手立てがありません」
「ま、そうするほかねぇだろう」
男は腕組みして、しばし考えた。
「請け負ってやってもいい。だが、金で片をつけるのは気に食わねぇな。生きるか死ぬかの瀬戸際だぜ。助かりたいなら、なりふり構っていられねぇはずだ」
「……仰るとおりです。わたしはどうすれば」
「すべてを差し出せ」
「えぇと、手持ちと着物とかんざしと――」
すると男は呆れた顔をした。かぶりを振って彼女を指差す。
「おれが要求しているのは、おまえだ」
「……え?」
「山を下りるまでのあいだ、おれの女になれ」
芳乃は絶句する。男のぎらついた目に本気だと悟り、身体を引いた。
「そ、それは……」
「嫁ぐって言ってたな。なに、黙ってれば勘づかれやしねぇよ」
「あなたに満足していただくことなど、とても」
「奉仕なんざ期待してねぇ」
芳乃は動揺のなか、弱々しく口にする。
「わたしはなんの価値もない娘です……」
「おまえは鏡を見たことがないのか。それとも、見慣れて当たり前になっちまったのか」
戸惑う彼女を、男がじろじろ眺めた。
「おまえみたいな美しい女と道連れになってみろ。理性を保てる男なんぞいるもんか。いきなり襲われるくらいなら、宣言されたほうがましだろ。ついてくるなら、そういう覚悟をしておけよ」
「そ、そのように言われては……」
「嫌なら、この山で野垂れ死ぬんだな」
非情な言葉に、芳乃は唇を噛んだ。
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