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教室へ近づくに連れ増える生徒の数。それはどうやら俺のクラスへと続いているようだった。
そして教室からは何やら言い争いをする男女の声が響いていた。
なんだ? 朝っぱらからケンカか?
俺が教室へ足を踏み入れた途端、何故か一気にクラス皆の視線が突き刺さった。こんなことは久しぶりだった。クラス替え当初はよく目の当たりにした光景だったが、さすがに半年も経てばそれはもうなくなっていた。だけど、今日は何かが違う。
俺に向けられる疎ましげな視線。
それはクラスの中心で言い争っているらしい男子生徒が放つもので、その他クラスメイトたちも似たような目で俺を見ていた。
だけど、たったひとつだけ違う目を向ける人物がいた。それはその言い争いをしていたであろう男子生徒の向かいにいた女子生徒だった。
名を凛堂樟葉。芸能人さながらのカッコ良い名前とは反して、とても小柄でかわいらしい女子生徒だった。
「なんだ? 揉め事か? 朝礼始めるから早く席につけー」
止まった時間を動かしたのはいつもより早く教室へやって来たクラスの担任だった。
奇妙で不快な視線の檻から解放されたはいいが、あのケンカはどう見ても俺が関与している気がしてならなかった。皆の目がそれを物語っていた。
「……」
普段は波風を立てないよう極力静かに過ごしているつもりだった。自分の見目を自覚してからは必要以上に他人とも関わらないようにしてきた。
それがどうしてこうなったのか。
俺が知らない間に何かしてしまったのか?
問うたってわかるはずもない。だってさすがに今回は思い当たる節がないのだ。自分でもどうしようもない。それなら――。
「凛堂」
こうなれば直接本人に聞く他ないと、俺は前の席に座る当事者に声を掛けた。
「今朝のことなんだけど――」
だけど、彼女は立ち上がるとこう言った。
「なんでもないよ。深大くんは何にも悪くないから。気にもしなくていいから!」
それだけを言い残して彼女は教室を去って行った。
取り残された俺は彼女が放ったその言葉を反芻するも、真相には全く辿り着けそうになかった。
となれば……望み薄だが、もう一人の当事者に聞いてみるか。
気乗りはしないが、仕方がない。俺が原因であることは先ほどの彼女の発言で確信したのだから。
相手の男子生徒――相楽は俺のことをあまり良く思っていない。理由は何かあるのかもしれないが俺は知らない。
生理的に受け付けないとか、そういう類なんだろうと勝手に解釈していた。だってほとんど関わったことがないのだ。それが俺の見目のせいだというのなら、それはもうどうしようもないと思った。
俺が重い腰を上げたときだった。
不意に声をかけられ振り向けば、そこには二人の女子生徒がいた。同じクラスで確か凛堂とよくつるんでいる二人組だ。
「あの……今朝のことで、少しいいかな」
目が合わないのは身長の差だけが原因ではない。
俺はできるだけ落ち着いた声で応じた。
二人の話によると今朝、教室内で言い争いをしていたのはやはり俺が原因とのことだった。
つまるところ今朝の通学時に俺がとある女子生徒の手を掴んだ(正確には助けたつもりだが)現場を偶然にも目撃した相楽が、その話を良からぬ方へと飛躍していたらしい。それを凛堂が止めに入ったことでケンカへと発展したということだった。
現場を目撃した相楽とは違って凛堂は恐らく真相を知らないはずなのに、それでも相楽の話は間違っていると、要は俺の味方をしてくれていたということだった。
理由はわからない。彼女の持つ強い正義感がそうしてくれたのかもしれない。だけど、それでも俺は飛び出さずにはいられなかった。
他人と深く関わらないと決めたのに、こんな俺の味方をしたって凛堂が傷つくだけなのに……矛盾した気持ちが俺を苦しめてくる。
俺はそれを振り払うようにして凛堂を追いかけた。
昼休みごった返す人混みの中、どうしてだろうか。探していた人はすぐに見つかった。
「凛堂!」
その声はまっすぐに彼女へと届いて、振り向いた彼女と迷うことなく目があった。身長差こそあったが、目があったのだ。
そうだった。いつも……いつも彼女だけは俺の目を見て話してくれた。
俺は息を整えると彼女に謝った。
「今朝のこと、聞いた。俺のせいで凛堂に嫌な思いをさせて――」
「――バカ」
「え……」
「深大くんのバカ! 気にしなくていいってさっきも言ったでしょ。どうして謝るの? 深大くんは何か悪いことでもしたの?」
「俺はただ、自分のせいで凛堂が傷つくのが嫌だっただけで――」
「それを言うなら……その言葉、そっくりそのままお返しするわ」
「凛堂?」
「だって私……見ていたんだから。今朝同じ電車にいたんだから知ってるよ!
深大くんが人混みに流される後輩を助けたことも……そのあと少しだけ悲しそうな顔をしていたのも全部知ってるんだから……。
私だってやだよ……深大くんが傷つくのやだもんっ……」
泣かせたいわけじゃなかったのに。
ただこんなに優しい人に自分のせいで傷ついてほしくなかっただけなのに。
俺はもう他人とは深く関わらないって、そう誓ったのに――。
「凛堂……ありがとう」
つい癖で、口から衝いて出そうになった“ごめん”の言葉は今は呑み込んだ。だってそれじゃあ、また凛堂のことを悲しませてしまうと思ったから。
小さな身体を震わせて涙する目の前の女の子に、俺のために涙を流す彼女にしてあげられることが今の俺にはわからなかったけれど、これだけはどうしても伝えたかった。
「例えこの先何人に味方をしてもらったとしても多分、凛堂ひとりにも敵わないと思う」
「それって、どういうこと……?」
「まあ要するに、凛堂に味方してもらえるのはそれくらい心強いってこと」
「深大くん……」
「だから、ありがとう」
この日を境に、彼女が過度に俺のことを庇うことはなくなった。
やたらと俺に話しかけてくることも、時々聞こえてくる有りもしない噂話に怒ることもなくなった。
それは俺の気持ちがきちんと彼女に伝わったのだと嬉しい反面、関わりが減ったことに少しだけ寂しいような意外な気持ちもあった。
だけど、これでいい。これで良かったんだ。
正義感の強く心優しい人間が傷つく道理なんてどこにもない。彼女が変わりなくこれからも笑ってくれているなら、俺はそれがいちばん嬉しいと思うから。
「先生、これ日誌です」
「おー、お疲れさん」
放課後、担任へ日誌を渡し終えた俺は職員室を後にした。そのとき何となしに見た出入り口にある鍵掛けの空白が気になったが、俺はそのまま教室へと戻った。
掃除を終えた教室は生徒も疎らでもうほとんど皆帰っている。だけど、俺の前の席にはまだ通学カバンが置いたままだった。
凛堂、まだ残っているのか。
そして思い起こされるのは本日最後に受けた地理の授業。終わったあと凛堂は先生と何やら話をしていた。先ほど職員室で見た鍵掛けの空白も地理の準備室だったことを思い出し、俺はそこへ向かっていた。
「やっぱりいた」
「あれ? 深大くん」
「凛堂またあの人に、片付け頼まれた?」
「確かにあの先生、人使い荒いけどね。今日はボランティアみたいなもの。ノート提出したついでにね。それより深大くんはどうしたの?」
「いやまあ……凛堂が帰ってなかったからもしかしてと思って手伝いに来た」
「そう、なんだ」
「それにここの脚立、この間壊れたばかりだからあんまり過信するとケガするよ」
「え! そうなの――?!」
言った傍からグラグラと傾いた脚立がバランスを崩した。その拍子にふわりと宙に浮いた凛堂の身体を抱えると、そのまま床へ二人倒れてしまった。
「ご、ごめん! 深大くん、大丈夫?!」
「凛堂こそ……平気?」
辛うじて受け身を取れた俺は背中を強打することは免れた。緊急事態だったとは言え、凛堂の腰に手を回し今までよりも遥かに近い距離で俺達は密着していた。
その事実を今更ながら目の当たりにした俺はその手をすぐに解いた。
「悪い……」
だけど、彼女は俺の上に乗ったまま、なんなら密着した状態のまま動かなくなってしまった。
「凛堂? もしかしてどこか痛む――?」
その問い掛けに彼女は答えるようにして両手を胸に押し当てた。その仕草が何だかとても神聖に見えて俺はつい目を奪われた。
「最近……ほとんど話さなくなったよね」
ぽつりと凛堂は話し始めた。半身に彼女の重さを感じながら、また話すには幾分近すぎる距離を強いられながら、俺は彼女の話す言葉だけに集中した。
だってそうでもしないと……こんな状況、冷静に堪えられるはずがない。
「深大くんは気づいてた?」
「それは……わかってた。だってあの日、俺が凛堂にそうするよう伝えたから。凛堂みたいな優しい人間が傷つくことなんてないだろ――」
「――違う……。それは違うよ、深大くん」
「違うって何が?」
「初めはみんなに知ってほしくて……深大くんは本当は怖くないって優しい人なんだよって、みんなに知ってほしくてたくさん話し掛けてた。
だって色んなウワサはあったけど、どれも見たことがなかったんだもの。それどころか席を変わってあげたり、困っている人がいたら助けてあげたり……私、ずっと見てたから知ってるんだよ」
「……」
気を紛らすため彼女の言葉に集中したのがいけなかった。身体が、全身が俄に火照りはじめていく。今はもうこれを鎮める方法が見当たらない。
確かに加速する鼓動を感じながら俺は彼女の言葉を静かに待った。
「最近あまり話さなくなったのも深大くんに言われたからじゃない。深大くんのことを知れば知るほど、他の人に知られたくないって思っちゃったから……。私だけが深大くんのステキなところ知っておきたいって思ってしまったから……!」
――俺は今、なにをしているんだ――……?
女の子に近づくどころか話すことだって避けてきたというのに、俺は今目の前の凛堂樟葉を抱き締めている。
支えるためだと言って腰に回した手を今し方解いたばかりだというのに、その手を俺はまた彼女に伸ばしている。先ほどなんかよりももっと近い距離で彼女を感じている。
ダメだ、これ以上は――……。
脳裏に微かに響く警鐘に縋りついたとき、タイミング良く先生が戻って来た。
俺達はすぐに立ち上がるとその場を後にした。
教室へ戻るまでの道のりが異様に長く感じてしまったのは、どちらとも一言も言葉を発しなかったから。無言で歩く廊下は何だかとても冷たく感じて、昂っていた俺の頭も徐々に落ち着きを取り戻していた。
いや……さすがにアレは俺もどうかしていた。
突然抱き締めるなんてあんなこと、ヘンタイの所業だ。
誰もいない教室に着き、帰る支度を終えると俺は口を開いた。
きっと先ほどまでの俺なら彼女に対して謝罪だけをしていたと思う。
だけど今はもう、これでいいはずなんだ。
「なあ、凛堂」
振り返らない彼女の隣まで行くと俺は続けた。
だって今はもう、これで間違っていないとそう思いたい。
「今日……二人で帰らないか」
彼女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに満面の笑みを見せてくれた。
それを見て俺は思った。この笑顔を守るためなら、俺はもう簡単には自分を傷つけたくない、と。
このコンプレックスはそう容易く受け入れることはできない。だけど、それはただの人としての一面に過ぎないんだと、自分を傷つけてまで気にするに値しないんだと、キミがそう教えてくれたから。
俺は多分明日から他人にも、そして自分にももう少しだけ優しくできるような、そんな気がするんだ――。
(終)
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