77人が本棚に入れています
本棚に追加
1
文明開化の五十年。千変万化するこの国の帝都にあって、浅草は今も昔も庶民に寄り添い続ける娯楽の町である。
そんな浅草を、今夜もあてどなく歩く青年。相澤祥太郎、歳は二十歳。
紺の着流しに山吹色の帯を締めている。
大正十二年、三月の終わり。ここ数日は花冷えの日が続いている。
彼は二重回しを羽織ってくるんだった、と後悔しつつ、けれども酔いを覚ますにはちょうどよい気候であるとも考えた。
祥太郎は、慶応の火事で焼けて以来再建のされない雷門を通り抜け、赤煉瓦の仲見世を北へと向かう。
浅草寺の境内までやってくれば、そこには焼き鳥やおでん、飴細工といったさまざまな露店が軒を連ねていた。
老若男女でひしめき合う露店を横目に見ながら、酒が欲しいな、とふと思ったところで、彼は自分自身に呆れかえる。下宿に戻らずこうやって夜道を歩いているのには、酔い覚ましの目的があったはずだ。
しかし誰も彼もが浮かれた夜の雑踏を歩いているのでは、酔い覚ましも何もあったものではない。実際のところ、彼はこの酔いから覚めることを恐れているのかもしれなかった。
人混みから外れて観音堂の裏手へ回り、噴水近くのベンチへと腰かける。
大きく夜の空気を吸って吐き出した。
先ほど立ち寄ったカフェーで、馴染みの女給に言われた言葉を思い出すにつけ、祥太郎の胸の内にはどうしようもなく苦いものが広がっていく。
二十四になる彼女はようやく良縁を得て、それからあとひと月もしないうちにカフェーを辞めるのだと嬉しそうに笑っていた。
再び大きく夜の空気を吸い込んで、吐き出す。
図らずもため息のようになってしまった。
最初のコメントを投稿しよう!