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それから祥太郎は相澤家の一員となり、義一と明子、それから四人の姉に迎えられた。
姉たちは祥太郎を、はじめ好奇の眼差しで見ていたが、やがて関心がなくなると会話も接触も一切生まれなかった。
明子はというと、常に物静かに夫の後ろに控えてニコニコと笑っている穏やかな人だった。家の勝手が分からなければその都度教えてくれ、転校先の小学校から疲れて帰ってくれば、おやつにクッキーやキャラメルを出してくれた。
──本当は俺のことをどう思っているのだろうか。
当然そんなことを面と向かって聞けるはずもない。明子は何となく感情が読めないところがある。いっそ邪険に扱ってくれでもしなければ、このわだかまりは一生消えそうもなかった。
一方、義一は、跡継ぎ、跡継ぎと煩わしい周囲の声からようやく解放されたようだった。
彼の女癖の悪さは家族の中では周知の事実となっていて、小学生の祥太郎ですらすぐに勘づいてしまった。
ある時は会社の女事務員と。またある時は偶然汽車に乗り合わせた女教師と。仕事を終えてすぐ帰宅することの方が珍しいほどの有様であった。
「今日は遅くなる」
朝食のパンを食べながら義一が一言告げれば、明子は「はい、分かりました」とニコニコ笑っている。一体どうして遅くなるのか、そこに踏み込んだ会話もなければ夫に詰め寄ることもない。
「上品で貞淑な理想の妻」と、近所では評判だった。義一も若き経営者として名を馳せている。そこに祥太郎が急に家族の一員になったことについては、祖父のもとで教育を受けていただとか最もらしい理由で誤魔化されていたらしかった。
そんな生活がしばらく続いたある夜のこと。やけに寒い冬の日だった。
学校から帰った祥太郎が風呂の準備をしていると、突如として背中に強い衝撃を受け、そのまま沸かす前の冷たい水の中に頭から落ちてしまった。
慌てて這い上がろうと湯船の木枠を掴むが、今度は後頭部を押さえつけられ身動きが取れない。
「…………、……」
外で誰かが何かを叫んでいるが、水の中にいる彼にはその内容までは聞き取れない。
それよりも刻々と死が迫っていることがわかる。祥太郎は必死でもがいた。
そして意識が遠のきかけたころ、ようやく後頭部を押さえつける力が弱まった。
「げほっ、ごほっ……げほっ」
水から顔を出した祥太郎は、必死に息を吸い込んだ。
心臓があり得ないぐらいの速さで音を立てている。
死んだと思った。怖かった。寒かった。誰か。叫びが脳内をぐるぐると回る。けれども何一つとして言葉にならなかった。
「男なんて……!」
背後を見れば、そこには明子が立っていた。
涙で白粉がぐちゃぐちゃに流れ、半狂乱になって叫んでいる。
「男なんて! 男なんて! どうして戻ってきたの! どうして!」
明子は再び祥太郎に掴みかかった。彼はどうにか明子を押し退けて風呂場を後にし、自分の部屋の隅で凍えたようにしばらく蹲っていた。
このまま家を飛び出してどこへでも消えてしまいたい。そう思ったが、寒くて寒くて、窓を開けることすら叶わなかった。
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