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「家を出たい」
祥太郎がそう義一に訴えたのは、明子から日常的に暴力を受けるようになったからだ。
「上品で貞淑な理想の妻」である明子が、どうしても義一に向けられなかった積年の恨みや自分自身に対する情けなさを、唯一爆発させた相手が祥太郎だったと言っていい。
かと言って祥太郎自身に対しては微塵も興味がなかったのだが。
この頃の祥太郎の身体には生傷が絶えないのだった。
「何を言ってるんだ」
第一声、義一は驚いて手に持っていた新聞を机に下ろす。
「お母さんは俺を嫌ってる。俺はここにいない方がいい」
「そんなはずはないだろう。明子だってお前がここへ来るのを心待ちにしていたんだ」
「どうしてそんなことが言えるんだ。ほとんど家に帰ってこないくせに」
「それは今俺の会社にとって大事な時期だからだ。ほら、見てみろ」
義一は新聞を再び手に取って祥太郎の前で広げて見せた。
「欧州で大きな戦争が始まった。こんなチャンスはないぞ」
彼は興奮気味に身を乗り出す。
その迫力に、祥太郎は思わず一歩後退した。
「戦争に必要な物資を欧州に輸出しまくるんだ。それだけじゃない。戦争の混乱で欧州から亜細亜の国々への供給が途絶えている。そんな今こそ日本が代わって供給の中心となる時なんだ。わかるか? 今に日本はかつてないほどの好景気を迎える。俺たちのような貿易商にとって、事業を拡大する絶好の機会だ」
「……今はそんな話をしたいんじゃない」
「祥太郎。俺の事業を継ぐのはお前しかいないんだ。これから進学してたくさん勉強する必要がある。だから家を出るなんて突拍子もないことを言うのはやめてくれ」
そうは言っても、祥太郎にとっては戦争だの事業だのと言う方がよほど突拍子もない話に思えて仕方がない。
「……俺は勉強が好きじゃないし社長には向いてない」
「小学校も卒業しないのに向き不向きなんて分かるものか。それにお前は俺の息子なんだぞ。今に立派になるさ」
「なるわけないだろ!」
祥太郎はついに叫んだ。
──何が社長だ。自分のせいで実の母親は死に、義理の母親には憎まれ、父親には後継ぎという名の都合のいい道具でしかない己に、一体何ができると言うのだ。学校の成績だって良くないし、事情を察する一部の人間には腫物扱いされていることも知っている。
「……やれやれ。やはり最初から俺のもとで育てるべきだったな。ミチに似て頑固になってしまった」
義一は大きくため息をついた。
「ともかく、家を出るなんて考えは捨てなさい。わかったな」
「……じゃあ勝手に出ていってやる」
「馬鹿なことを言うな。たった十一のお前にそんなことができるはずもない。……それじゃあ、俺は出掛けてくるから」
義一は新聞を置いて立ち上がった。祥太郎はその背中に向かって叫ぶ。
「こんな夜にどこに出掛けるんだ! 俺のこと見張ってなくていいのか? 出ていくと言っているのに」
「……ははは、明子に見張らせよう」
その夜、祥太郎はなけなしの金をかき集めて家を飛び出した。飛び出す瞬間を明子に見られていたような気がするが、誰も追いかけてくる人はいない。
横浜駅で東京行きの切符を買って、やってきた汽車に飛び乗る。
東京に行って、働いて働いて、ボロボロになって死んでしまおうと思った。
そうして天国の母に会いに行くのだ。
「死んでまで育てる価値なんて俺にはなかった……」
窓際へ向けてポツリとこぼした呟きは、隧道の暗闇に溶けて消えた。
きっと自分はこんなことが言いたいのではなかったのに。
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