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「この糞餓鬼が! 舐めやがって!」
こっそりと店を抜け出して吾妻橋の中ほどまで走ったところで、祥太郎の頭にげんこつが落ちてきた。
彼はその場に蹲って恐る恐る背後を見上げる。するとそこには六尺以上の大柄な男。これが彼と丈吉との最初の出会いだった。
「来い!」
丈吉は祥太郎の着物を掴んでズルズルと人の中を引きずっていく。そして店まで戻ってくると、厨房の洗い場の前に立たされた。
「皿を洗え。全部だ」
「え?」
「食った分は働いて返すのが当然だ」
「……警察に突き出さないのか?」
「人が足りてねぇんだ、早くしろ!」
祥太郎は渋々皿を洗い始めた。
正直を言えば警察に引き渡されなくて安心だ。こんなみっともない姿で再び父親と対面するなど、想像しただけで恥ずかしくて死んでしまいたい。
ここの店主は身体が大きく、祥太郎が逃げ出したとて一瞬にして捕まるのがオチだろうから、大人しく従うしかないのである。
明子に殴られた時の数倍重い痛みが、まだジンジンと後頭部に残っていた。
「今日は店じまいだ。もう上がっていい」
夜になって丈吉は、金の入った小袋を祥太郎に握らせてきた。
「……これは」
「今日の分の給与だ」
「……え?」
「だが勝手に使っていいとは言ってねぇぞ。お前が今まで盗んできた分、一軒一軒回って返してこい」
「……そんな」
そんなことできるわけがない。恥の上塗りではないか。それに今度こそ警察に引き渡されてしまうかもしれない。
「できねぇのか?」
「できない。あんたが返してきてくれ」
「ふざけんじゃねぇ!」
ゴツン、とまたげんこつが落ちてきた。
「なぜ無関係の俺が頭下げなきゃいけねぇんだ」
「……それもそうだ。じゃあもう出ていくからほっといてくれ」
丈吉は呆れたようにため息をついた。
「……お前、名前は何ていうんだ」
「……祥太郎」
「祥太郎。お前、行き場がねぇんだろ。もう苦しまなくていいから。楽に生きろ」
「……え?」
「拾っちまったのも何かの縁だ。しょうがねぇから明日俺も一緒に謝りに行ってやる。そんでお前はここで俺の店を手伝え」
「手伝うって……」
「盗っ人のくせに上等な着物着てやがるから、使いものになんねぇかと思ったが……。思いのほか手際がよくて驚いた」
ミチが働いている間の家事は祥太郎が請け負っていたから、皿洗いぐらいならどうということはない。
新しい家では、「男の人に家事なんてさせられない」と明子に拒まれてしまったが。
「でも俺、住む場所もないし……」
「住む場所なら、私にあてがあるよ」
振り返れば、丈吉の妻・菊代がニコニコと笑っている。
「夫を亡くした友人が、自宅で下宿をやっていてね。話はつけておくから、そこに住んだらいいじゃないの。ねぇ」
「でも……」
「なんだ、まだ何かあんのか? 飯なら心配すんな。運よく俺は飯屋だから」
ハハハ、フフフと二人が笑い合うのを、祥太郎は呆然と眺めた。
どうしてだ。自分なんかに構ったっていいことなんか何もないのだ。
けれども祥太郎はひどく疲れていたから、菊代に連れられるままに風呂に入って、それからぐっすり眠ってしまったのだった。
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