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食事を終えると、彼女は文机の引き出しからノートを取り出して持ってきた。
そこには何度も片仮名を練習した跡がある。
「時間があるときにずっと練習しとったの。結構色んなものが読めるようになったんよ。ほら、このお化粧品のラベルとか……。カフェーの看板とか、六区にある活動写真館の幟とかね」
まだ一週間かそこらしか経っていないというのに、彼女はずいぶん吸収が早い。
「もし兄ちゃんがまた来てくれるなら、絶対お手紙書いて渡そうって思うてたんよ。それで、書いたは書いたんやけど……」
彼女は赤面して俯いた。
「な、なんか恥ずかしくて捨ててしもた」
「なんでだよ」
「あっあない緊張するもんとは思わんかったんや! 自分の気持ち言葉にするなんて!」
こういう場合の手紙は、客をその気にさせる耳障りのいい言葉でも適当に並べておけばいいのではないだろうか。
少なくともあのカフェーの女給はそうしていたが……。
「兄ちゃんはお手紙貰うたことある?」
「……まぁ」
思い出したくない記憶を掘り起こされた祥太郎は、苦い顔をして頷いた。
「誰から? やっぱり女の人やの?」
「……そうだけど」
「もしかして兄ちゃん、恋人でもおるん?」
「いたらここへ来てない」
「意外とちゃんとしてるんやな……」
それは心外である。己は父親とは違うのだ、と祥太郎は自負している。
しかし血は争えないものだから、祥太郎は一生結婚するつもりはない。こんなことを言えば、また丈吉に呆れられそうだが。
「お手紙って貰うたら嬉しいもんなんかなぁ」
「……さぁ、嬉しいんじゃないか」
「うーん。じゃあ明日来るはずの弥助さんにでも書いてみようかな」
そう言って彼女は文机の引き出しから花柄の便箋を取り出し、最初の行に「ヤスケサンヘ」とペンを走らせた。
「なんて書けばええかなぁ、兄ちゃん」
「…………は?」
「え?」
カヨはきょとんと目を瞬かせている。
「……俺が考えるのか?」
「練習やもん」
「練習なら俺に書けばいいのに」
「え? それは嫌や」
「なんでだよ!」
「なんでもや!」
結局、祥太郎が考えた文面をカヨが便箋に書き取っていった。彼女はできあがった手紙を眺めて満足げに微笑んでいる。
まさか弥助さんとやらも男の考えた艶文を受け取ることになるとは思うまい。
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