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しばらく遠くを見つめていると、人混みから外れてこちらへと近づいてくる少女の影があった。足元には黒いブーツ。目線を上げれば、海老茶の袴に菜の花色の着物が鮮やかに飛び込んでくる。
歳は十三、四といったところだろうか。装いを見るに、おそらく女学生だ。
「隣、いいですか」
小鳥のさえずりのような声だった。
祥太郎が頷くと、少女は一人分の間を開けて、彼の隣に腰を下ろす。
マガレイトに結った髪には大きなリボンを二つ結んでいる。
丸く大きな目に薄い唇。ガス灯の明かりに照らされた頬は痩せこけて、溌剌とした女学生の格好に対してちぐはぐな印象を与えている。
彼女は祥太郎と視線が合うとパッと目を逸らし、それからモジモジと俯いた。
困った祥太郎はこちらから声をかけてやるべきかずいぶん悩んだ。
「あの……」
「あっ、お、お兄さん。今日はいいお天気ですね」
「そうですね」
もうとっくに夜だけど、と脳内で付け加えておく。しかも昼間は雨さえ降っていたような気がする。
「お、お一人ですか?」
「はい」
「お買い物ですか? お参りですか?」
「いや、ただの散歩です。酔いを覚ましに」
「酔いを……」
彼女は困ったように眉を下げて、口をはくはくと動かした。
「……じゃあ、もうお酒はいらないですか?」
「え?」
「お酒、もう飲めませんか……?」
「……飲めないことはないですけど」
酒の席に誘われているのだろうか、まだ尋常小学校を卒業したばかりのような少女に。なんとも奇妙な話だ。
それとも酒屋の営業だろうか。
「う、うち、『銘酒屋』やってるんですが!」
「あっ」
その瞬間、祥太郎は全てを理解した。
――『夜鷹』だ。
ここ浅草で『銘酒屋』と聞けば、それが夜鷹、すなわち私娼を売る店であることは暗黙の了解である。
少女は女学生でもなければ祥太郎を酒の席に誘っていたのでもない。ついでに酒屋の営業ですらなかった。
「……帰ります」
祥太郎が立ち上がると、少女は「あぁ」と悲痛な声を上げて、彼の腕に取り縋った。
「ま、待って! うちが気に入らないなら他に別嬪がたくさんおります!」
「そういう問題じゃない」
「吉原行くより安いですよ! お部屋代たったの一円です!」
「そういう問題でもない……」
祥太郎は己の袖に取り付く少女を再びベンチに座らせた。今にも泣き出しそうな彼女にチクリと良心が痛む。夜鷹とはこんなに客引きが下手なものだっただろうか。鷹どころか餌を与えられぬ雛鳥のようだ。
「……そもそも、きみはまだ客を取るような年齢じゃないだろ」
「取れます。十二の時から働いてるんですから。今は十三」
「吉原には十八より上しかいなかったはずだ」
「吉原は警察に届けを出さなきゃ働けないの。その分ここは自由なんです」
だから夜鷹になったのか。この小さな身体で。
再び良心が痛む。いや、今度は良心ではない。言うなれば、彼自身が心の奥底に隠していた古い傷のようなものだ。もしも彼女のこれが演技で、祥太郎の心すら見抜いて声をかけたというなら末恐ろしい娘であるのに違いないが。
祥太郎は再び立ち上がる。少女は弾かれたように顔を上げて、上目遣いに彼を見た。
「やっぱり帰りますか……?」
祥太郎は財布から一円札を三枚抜き出して、少女の手に握らせた。
「え……?」
「案内頼みます」
その瞬間、少女はベンチを倒さんばかりの勢いで立ち上がって祥太郎の腕に抱きついてきた。
「ほんまに? ほんまにええの?」
「えっ」
「おおきに! おおきに!」
少女の勢いに気圧されそうになる。
三円。騙されたふりにしては高くついたが、今後あの女給のもとで頼むはずだった酒代だと思えば大した金額でもない。
そう自分に言い聞かせながら、祥太郎は前を歩く少女の痩せた肩を眺めていた。
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