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 観音堂を離れ、ひょうたん池の脇を通って彼女が向かうのは、凌雲閣(りょううんかく)、通称浅草十二階だった。  明治の半ばに完成したこの赤煉瓦の塔は、文字通り雲を凌ぐほどの高さを誇り、浅草の象徴とも言える存在である。  ところが元号が大正に変わって十年以上が過ぎた今となっては、明治の頃の賑わいはすっかり鳴りを潜め、東京見物に来た地方の者がポツポツと足を運ぶ程度の遺物となっていた。 「こっちです」  少女は十二階が見下ろす薄暗い路地へと進んでいく。  銘酒屋、楊弓(ようきゅう)場、新聞縦覧所。さまざまな店が軒を連ねるが、それは表向きの顔で、裏ではいずれも私娼による商売が行われている。  ちなみに祥太郎は浅草に九年近くも暮らしているが、この魔窟に足を踏み入れたことは一度もなかった。  迷い込むと二度と外に出られないのではないか。そう思わずにはいられないほど怪しげで、彼は不安に駆られ周囲を見回す。  軒を連ねる店先には幾人もの妖婦が立ち、こちらへ向けて笑みを浮かべながら手招いてる。進めば進むほど、この雛鳥のような少女にはあまりに似つかわしくない場であるように思われた。  いくつ路地を曲がったか数えるのを止めた頃、少女は一軒の店の前で足を止めた。  店先に吊り下げられた提灯が銘酒の看板を白々しく照らしている。  少女に続いて店に入れば、二階の座敷に通された。そこには長火鉢が一つ。それから五人ほどの少女たちがめいめい違う服装をして、火鉢の周りに腰かけていた。和装の者もいれば、洋装の者もいる。案内してきた少女が一番若いように見えるが、他も皆十八に満たないようである。  祥太郎は彼女たちから酒のもてなしを受け、一応酒は出すのか、などと考えていると、先ほど案内してきた少女から隣の部屋へ呼び出された。 「誰がええですか?」  こそこそと小声で耳打ちされる。 「きみでお願い」 「う、うちでええの? ほんま?」  少女はあたふたと部屋の中を歩き回り、しまいには隅の茶箪笥に足をぶつけて飛び跳ねながら部屋を出ていった。  祥太郎が呆気にとられていると、数分のうちにまたあたふたと戻ってくる。 「改めまして……、玉鈴(たますず)といいます。どうぞよろしゅう……」  恭しく頭を下げる彼女に、祥太郎も思わず礼を返す。  すると彼女はずいとこちらへにじり寄ってきて、先ほど祥太郎が渡した一円札を二枚、袂から取り出した。 「三円も貰えへん。お部屋代の一円だけでいいよ」  そう言って押しつけられた二円を、祥太郎は逆に押し返す。 「金が要るんだろ。貰っておいてくれ」 「でも……」  有無を言わさぬ祥太郎の瞳に、彼女は渋々といった様子で、再び袂に金をしまい込んだ。  祥太郎からすれば、彼女が金を受け取るのを渋る理由がわからない。 「かんにんな、兄ちゃん。でもありがとう」  そう言って笑う彼女の首筋は、あまりに細くて痛々しい。明かりの灯る屋内にいると、それがなおさら祥太郎の目についた。  やはりろくに食事を摂ることができていないのだろうと思う。  その苦しさは祥太郎自身が身にしみてわかっていたから、少しでも彼女に金をほどこしたいと思ったのだ。  彼が玉鈴の誘いに応じたことに理由があるとするなら、きっとそれが唯一であった。
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