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『久々だな祥太郎。大きくなったな』
その人を前にした時、祥太郎はぽかんと口を開けたまま何とも間の抜けた顔で突っ立っていたように思う。
『──お父さん?』
なんと、家出したのを最後に十年以上も会っていなかった義一が祥太郎のもとを訪れたのだった。
『元気そうだな。無事で何よりだ』
『──お父さんこそ。……明子さんや姉さんたちは? 家は? 会社はどうなった? 横浜の街は?』
心配できる立場じゃないのに、という思いは確かに胸の内にあって、けれども祥太郎は矢継ぎ早に質問を投げつけるのを止められなかった。
『安心しろ、家族は全員無事だ。家は倒壊したが最近ようやく建て直した。会社は──お前の知る会社はもう、とうの昔に潰れた』
『……え?』
『世界大戦後の不況でな。だが新しい事業興して細々とやってる。心配には及ばない』
流石だな、と思う。やはり自分などいなくても上手く回っているではないか。
『しかし俺ももう歳をとった。もうじき引退だな』
『……跡継ぎは』
『それが問題なんだ。という訳で祥太郎、横浜へ戻ってこい』
『……は?』
何を勝手な、と叫び出しそうになった。
いや、勝手なのは己の方なのだろうか。
『……冗談だ』
戸惑う祥太郎へ向けて、義一はいたずらっぽく笑う。
『跡は誰にでも継がせよう。会社に優秀なのが何人かいるからどうにかなる』
『……はぁ』
『けどな、祥太郎。俺はお前と一緒に事業をやる夢がどうしても捨てきれないんだ』
『……どうしてそこまで』
『お前は俺のたった一人の息子だからな』
義一はぽん、と祥太郎の頭に手を置く。
『まぁ気が向いたら戻ってこい。無理強いはしない。お前にはお前のやるべきことがあるようだしな』
この時期はちょうど店を再建するために忙しく動き回っていた時期であったため、義一も事情を察したようである。
『どうやら可愛らしい嫁さんもいるようだし……』
『え?』
義一の視線の先を見遣れば、物陰に隠れてジリジリとこちらの様子をうかがうカヨの姿があった。
『夫婦喧嘩でもしてるのか?』
『ち、違う! まだ結婚なんてしてない』
『“まだ”ってことはそろそろか? いつだ? 結婚式の資金は俺が出してやるから盛大にやれ』
『待て待て、話を勝手に進めるな』
祥太郎はしばらく逡巡したのち、義一に借金の件を相談した。
本当は自分一人で解決したかったのだが、うだうだしている間にもカヨは祥太郎に内緒で身体を売ろうとするかもしれない。
義一はそういうことなら、と手を叩いた。
『俺が代わりに金を出そう。それでいいか?』
『ちょっと待て。そう簡単に出せる金額じゃ……』
祥太郎は小声で借金の額を伝えた。
『それだけか。問題ないな』
『……本当に言ってるのか?』
『というか、この際だからお前の貯金を全てお前に渡しておこう』
『俺の貯金って何だ?』
『学費だよ。俺はお前に大学まで卒業させる予定だったのに、小学校すら卒業しないで逃げ出すから……』
目の前に出された通帳の額を見て、祥太郎は腰を抜かしかけた。
『ど、どうして使ってないんだ。不況や震災で苦しい時期もあっただろうに』
『だからどうにかやってきたと言っただろう。俺を舐めるな』
『はぁ……』
義一は、半ば強引に祥太郎の手に通帳を握らせた。
『これが償い……になるのかは分からん。が、そうしたい気持ちがあるのは分かっておいてくれ。すまなかった、祥太郎。父親でありながらお前の苦しみを理解してやれなかった』
義一は頭を下げる。祥太郎は思わずたじろいだ。
『……俺の方こそ世話になった恩を無下にした。ごめん、お父さん』
『違うんだ。お前が明子から虐待を受けていた話は彼女本人から聞いた。彼女も申し訳なく思っているようだが、元はと言えば俺が悪かったんだ。今更謝ったところでどうしようもないが……。どうか俺たちとは違う場所で幸せになってくれることを祈るよ。ただ困ったらまたいつでも頼ってくれ』
それから義一は、祥太郎に今の家や会社の電話番号の書かれた名刺を渡して去っていった。
最後に何度か振り向いて『気が変わったらぜひ俺の会社の跡を継いでくれ』と叫ぶので、祥太郎は苦笑しながら手を振った。
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