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昼食の時間帯を過ぎれば客も次第に少なくなり、祥太郎は食器の後片付けをしながらチラリと窓の外を見た。
まだ雨は降っていないようだ。厨房の外に立て掛けておいた二本の傘の出番は来ないかもしれない。
そんなことをぼんやり考えながら作業をしていると、ドアの向こうに人影が見えた。こんな時間に客がくるのは珍しい。
いらっしゃい、と声を掛けようとすれば、生後一歳ほどの赤子を背負い、もう片方の手で三歳ほどの少年の手を引いた女性が店に入ってきた。
「祥太郎さん。ごきげんよう」
「涼さん!」
祥太郎は彼女のもとへ駆け寄った。
すると突如、少年の拳が祥太郎のみぞおちに炸裂する。
「くらえっ!」
「痛っ! おい大志、何するんだ」
「こら大志。ちゃんとお兄さんに挨拶しなさい」
「したもん」
ずいぶん暴力的な挨拶である。
涼は大震災の翌年、無事に第一子を出産した。度重なる余震の中、めげずに産まれてきたその赤子は大志と名付けられ、今では大変やんちゃな少年へと成長した。
そんな兄を、涼の背中から少し冷めた目(に見える)で見下ろすのは、昨年産まれたばかりの第二子・正美である。
「何度来ても素敵なお店ねぇ」
涼がしみじみと周囲を見回した。
彼女はたまに二人を連れて店を訪れる。何か用事に託けなければ自由に外出もさせてもらえないというから、不憫である。
祥太郎は今日の日替わりメニューであるカツレツを切り分けて涼と大志に出し、正美には細かく切ったうどんを卵でとじたものを出してやった。
「うーん美味しい。最高だわ」
涼は頬に手を当てて料理を噛み締めている。
「正美は祥太郎さんに食べさせてもらった時に限ってよく食べるんだもの。まだ一つのくせに現金な子だわ」
「兄ちゃんおかわり!!」
大志が空になった皿を突き出してくる。
「早っ! よく噛んで食べろよ」
「噛んでるもん」
「まだ残りあったかな」
「あるもん」
祥太郎が厨房を歩き回るのを大志が雛鳥のように着いてくるので、彼は思わず吹き出した。
「ほら、危ないからお母さんのところでじっとしてろ」
「やだ」
「やだじゃない」
「じっとするのやだ」
「座って待ってなきゃお代わり持って行ってやらないから」
「ちぇー」
大志は口を尖らせる。
「しょたろー兄ちゃんが僕の父ちゃんだったらよかったのになぁ」
反応に困っていると、涼が勢いよく駆けてきて大志を回収していった。
「何言ってるのかしらねぇこの子は」
「はは……」
苦笑することしかできなかった。
やがて夕方五時の閉店時間がやってきた。
涼は子供たちを連れて店を後にする。
「もう少しいてくれればカヨさんが帰ってくるんだけど」
祥太郎は店先まで彼女たちを見送りながら言う。
「彼女も涼さんと子供たちに会いたがってたから」
「残念だけれどあまり長居はできないわ。次はどうにか休日に来たいわね」
涼はにこりと微笑む。
「以前カヨちゃんがおすすめしてくれた新作のお化粧品、どれも使い心地よくて最高だったって伝えておいてくれないかしら。子育て始めるとどうもそういうものに疎くなって困るから、彼女の情報には助かってるのよ」
「わかった、伝えておく」
「いつか一緒にお買い物でもしたみたいわね」
「今度息抜きに行ってきたらどうだ? 休日なら俺が子供たち預かっておくから」
「本当!? 楽しみだわ! カヨちゃんにもよろしく伝えておいてちょうだいね」
さ、行きましょうと涼は大志の手を握る。
祥太郎は去っていく三人の後ろ姿をしばらくの間見つめていたが、やがて立てかけておいた傘のことを思い出した。
やはり雨は降りそうにない。
ほっとしたような、残念なような、何とも言えない気分である。
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