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そこに何もないと分かっていても、つい凌雲閣の方向を目で追ってしまうのは当分止められそうにない。
震災前は木造建築の建物が立ち並んでいた浅草だったが、今は耐震と不燃化のための鉄筋コンクリート造のものばかりになった。
やはり街の雰囲気は変わったが、すれ違う人々には懐かしさと親しみを感じる。やはりみんな帰って来ずにはいられなかったのだろう。
少しずつだが街には笑顔が戻ってきた。
「祥太郎兄ちゃん!」
わっ、と背後から脅かされ、祥太郎は危うく声を上げそうになった。
菜の花色の着物に海老茶の袴。
マガレイトに結んだ髪に大きなリボンが二つ。
女学生姿のカヨがいたずらっぽく目を細めて笑っている。
「今日は迎えに来てくれたん? 嬉しいなぁ」
彼女は今市電から降りてきた所だった。
祥太郎の手には傘が二本。雨が降りそうだったから、と言い訳をするのも馬鹿らしくなって、祥太郎はうんと頷いた。
こうして並んで歩いていると、彼女と目線が近くなったような気がする。出会った頃と比べて少し背が伸びたのだ。
それから痩せこけていた頬も、今はツヤツヤと健康的な輝きを取り戻している。
彼女には『兄ちゃんが美味しい料理たくさん作るから太った』と責められたが、祥太郎に止めてやる気はさらさらない。
「それは?」
カヨは出掛ける時には持っていなかった風呂敷包みを両手に抱えている。
彼女は意味ありげに笑って、祥太郎を近くのベンチまで連れていった。
「開けてみて」
カヨに包みを渡されたので開いてみると、中から鮮やかな藍色が飛び込んできた。
手に取って広げてみる。それは上質な布で作られた羽織だった。
「お裁縫の授業で作ったんよ。兄ちゃんにあげる」
彼女は微かに頬を染めて笑った。
──祥太郎が義一から譲り受けた金で借金を返済することを提案した時、当然のようにカヨは頑として首を縦に振らなかった。
彼は彼女をどう説得すべきか連日悩んで、ようやく受け入れてもらえたものの、絶対に将来働いて返すと未だに息巻いている。
そして無事に借金は完済したのだが、それでも貯金にはまだたっぷりと余裕があった。
祥太郎は貯金を店の運用資金に回しつつ、一つだけずっと心に留めていた相談をカヨに持ち掛けたのだった。
『──高等女学校の入学試験を受けてみないか?』
カヨが息を呑むのが分かった。目は大きく見開かれ、キラキラと瞳が輝きが満ちる。
しかしすぐにブンブンと首を横に振った。
『お金、兄ちゃんが出すんやろ。そないに迷惑かけられへん。それに、女学校なんて、最近まで身体売って生きとったうちが行っていい場所やあらへんよ』
『カヨさんは立派だよ。何も恐れることはない。入学できるかどうかは試験の結果がすべてだし、カヨさんは小学校を出てないからちょっとした賭けにはなるけど』
『せやけど、受かったとして、学費……』
『元はと言えば俺の金じゃないから偉そうなことは言えないけど、ちょっとしたご褒美として受け取ってほしいというか……。なんというか、カヨさんが今までとてつもない苦境の中めげずに生きてきたことを俺は少しだけど分かってるつもりだから、こうやって突然お金が湧いて出てくるぐらいの幸運、受け取ったってバチは当たらないんじゃないかって……』
『…………』
『……カヨさん?』
彼女は泣いていた。
親に売られた時も両親と死別した時も涙は出なかったが、この時ばかりは、蓄積されたものが一気に流れ出るように泣き続けた。
『うち、ずっと学校に行ってみたかった』
やがてぽつりとそう零した。
『でもそないなこと誰にも言えへんかった。うち、頑張ってみる。絶対受かってみせるから、兄ちゃんも応援してて』
その日から、カヨは入学試験に向けて猛勉強を始めた。といっても彼女には尋常小学校卒業程度の知識は既に備わっていたから、すぐに合格基準にまで達することができた。
そして去年の春、晴れて高等女学校に入学することになったのだった。
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