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祥太郎は彼女に、鉛筆の正しい持ち方を教えてやった。それから教科書にあるような片仮名の表をノートに書けば、彼女は夢中になって練習を始めた。
十三年間、誰一人として彼女に文字を教える人はいなかったのだろうか。もう江戸や明治の頃とは違うのだ。尋常小学校はとうに義務教育の範疇となっている。
かく言う祥太郎も義務教育を終える前に実家を飛び出してしまったから、学歴らしいものは皆無なのである。けれど読み書きと算盤は勤め先の店主にびっしりと仕込まれていた。
彼自身勉強が好きではなかったため、幾度となく店から逃げたが、そのたびに店主からげんこつを食らって机の前に座らされたのを思い出す。
「ようやっと女学生らしいことができてるなぁ」
祥太郎がぼんやりと思い出に浸っていたところ、玉鈴、もといカヨはニコニコと彼を振り向いた。
「あ、でも片仮名は女学校でやることやあらへんな。小学校の一年生やな」
「……カヨさんはどうして女学生みたいな格好を?」
「ん? これ着て男の人相手にしたら喜んでくれるからや」
祥太郎は言葉に詰まる。
「……はっ! もしかして兄ちゃん好きやあらへんかった!? 何がええ? うち着替えてくるよ。女給さん、女車掌さん、それから……」
「いい、これでいいから」
部屋を出て行こうとするカヨを慌てて呼び止めた。
「えへへ。兄ちゃんも女学生が好きなんやな」
「それは語弊がある」
「うちも好きよ。キラキラしてて。お友達と一緒に銀座を歩いてお買い物したり、喫茶店でお茶したりするの」
「…………」
祥太郎は実家のかつて女学生だった姉たちが、毎夜部屋に寝そべってせんべい片手に雑誌を読みふけっていたのを思い出していた。
けれど彼女の夢を壊すには忍びない。
「……女学生になりたいのか?」
「うーん。なりたいとは少しちゃうかな。叶わへんことを望んだってしゃあないもんね。例えるなら活動写真のスクリーンの向こう側を見てるようなもんや。いつかここを出られたとして、そのときにはもううち、おばあちゃんになっとるかも」
「……出られるあては?」
「借金がぎょうさんあるの。……まぁでも、そんな積極的に出たいわけでもあらへん。外に出るのも怖いしな」
そう思うのも無理はないように思われた。
彼女の言葉から推測するに、おそらく彼女には後ろ盾となってくれる家族も知人もいない。それから片仮名を書くだけの学力もない。
借金、は親が遺したものだろうか。それを返し終わったとて、彼女が身を売る以外に生き方を選択できる状況にないことは容易に想像できる。
「……兄ちゃん? かんにんな、兄ちゃんはお客さんやのにこんな話……。あっ、せや!」
カヨはパシッと手を叩いて立ち上がると、押し入れからひと組の布団を取り出して床に敷き始めた。
「カヨさん?」
「あかん、もうだいぶ時間過ぎてしもた!」
敷き終わると、彼女は布団の上にちょこんと座ってわざとらしく着物の襟をくつろげた。
「さっ兄ちゃん、うちのこと抱いてええで!」
「唐突すぎる」
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