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祥太郎は彼女の襟を丁寧に元に戻した。
初めから彼にその気はなかった。カヨはあまりに幼すぎる。
だからいい時間になるまで適当に過ごすつもりでいたのだ。
「う……うそやろ……。兄ちゃん、三円も払っといて何もせえへんの? 三円やで。ひと月ぐらいお腹いっぱいお米食べれるで。もしかして兄ちゃん、結構お金持ちなん?」
「人を貧乏に見えたかのように……」
しかし間違ってはいない。実家はかなり裕福な方であったが、飛び出してきたときには無一文で、今は細々と下宿の身である。
「いいんだ。金だけ受け取ってくれ」
「そういうわけにはいかへんよ。うち何もしてへん」
「いいから」
「……優しいんやな」
ズキ、と心臓が鈍く痛んだ。これはきっと罪悪感というものだ。
今祥太郎は、彼女を通して過去の己を見ている。
なけなしの金を施すふりをして救いたいのは彼女、ではなく自分自身。
偽善とはこういうことを言うのだろう。
「兄ちゃん」
カヨがまた先ほどの二円を差し出している。
「これは返す」
「だからいらないと……」
「これで、あと二回、来てくれへん?」
祥太郎はハッとしてカヨの顔を見つめた。
観音堂の裏手で出会ったときのように、縋るような目をしている。
「……って言うても、うちが何もできへんなら、兄ちゃんには何の得もあらへんな」
「……カヨさん」
「兄ちゃんにまた会いたいって、思うて」
「……それなら」
――片仮名を練習しておいてくれ、次来るまでに。
俺の名前を、とはさすがに言えず、けれどもカヨは花がほころぶように微笑んだ。
そんなあやふやな口約束を、彼女は心から信じてくれているのだった。
帰り際、カヨは祥太郎を観音堂のあたりまで見送ってくれた。
何度か振り返れば、そのたびに彼女はこちらへ向かって大きく手を振る。
まだ空は暗い。けれどもうじき夜は明ける。
そんな予感がして、祥太郎は再び仲見世を雷門の方へと足早に抜けていった。
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