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祥太郎は下宿には戻らずに、直接職場へ向かうことにした。
目前に隅田川を望む、吾妻橋のたもと。この場所に、彼の働く一膳飯屋『よしの』が建っている。
テーブルが三つにカウンターがあるだけのこぢんまりとした店だが、店主を除けば従業員が祥太郎一人しかいない現状においては精一杯の広さと言っていい。
「よう旦那」
「おっ、祥太郎。今日は随分と早えじゃねぇか。ついに開店準備まで手伝う気になったか」
吉野丈吉、この店を切り盛りする店主である。
五十がらみで、背丈が六尺以上もある大柄な男だ。
実家を飛び出し行くあてのなかった幼き日の祥太郎に衣食住と仕事を与え、ばっちり人並みに教育を施した当の本人である。
店には他に丈吉の妻・菊代がいるのだが、腰の不調で二ヶ月ほど前から静岡の実家に帰っており、現在は療養に専念していた。
「……開店まで寝にきただけだ」
「期待した俺が馬鹿だったぜ」
祥太郎はカウンターの椅子を引いて突っ伏すと睡眠の体勢に入ったが、程なく箒の柄で背中を容赦なく突かれる。
「痛っ」
「邪魔だ。ほら、店内の掃除だ掃除」
祥太郎は渋々箒を受け取って、店の床を掃き始めた。
「ったく、また女のとこ行ってやがったな」
丈吉は野菜の仕込みをしながら呆れたように言う。
「お前が入れ込んでたカフェーの女給のとこだ。違いねえ」
「違う」
「違えのかよ。もう振られたか」
「振られたも何も、どこぞの御曹司と結婚するらしい」
「ははぁ、そりゃ残念だったな。お前もきっと顔だけなら負けてねぇのによ。顔だけなら」
祥太郎は箒を振り上げたが、相手は包丁を持っていたのであまりに分が悪くてやめた。
「まったく、家出なんかしなけりゃお前も立派な次期社長だったろうに。惜しいことをしたもんだぜ」
ほらよ、と丈吉は、丼に山盛りにした白米と、豆腐と野菜のたっぷり入った味噌汁をカウンターに置いた。
「朝メシ食ってねぇだろ。今はこれだけしかねぇけど食っとけ」
「どうも」
祥太郎は手を合わせて味噌汁の碗を手に取った。口にすれば、花冷えの身体がじんと温もっていく。
「美味い」
「そりゃそうだろうよ。俺が作ったんだから」
「……なぁ、俺に社長が似合うと思うか?」
「いや全く、全然、これっぽっちも」
「だよな」
「だが下町の飯屋の店主ぐらいにはなれると思うぜ」
祥太郎はハッとして顔を上げた。カウンターの向こうでは丈吉がニヤニヤと笑っている。
「欲しけりゃこの店ごとくれてやる。いらねぇならそれはそれでよし。何でも好きなことすりゃいいさ」
「……何なんだ急に。旦那、隠居にはまだ早いだろ」
「まぁお前が立派に嫁さん見つけてくるまでは安心できねぇけどよ」
「…………」
「俺と菊代には子がいねぇから、お前のこと本当の息子のように思ってんだぜ」
「…………」
「本当だよ」
「……何なんだ」
祥太郎は丼に盛られた米を勢いよくかき込みながら、自分がこの店へやってくる前の月日を思い出していた。
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