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今から二十年前。明治三十六年のある夏の日。祥太郎は横浜にある貿易会社の社長の一人息子として生まれた。
父親である相澤義一は、二十五にして親の事業を引き継ぎ、二十九歳の時、両親の勧めにより明子という女性を妻として娶った。
義一は明子との間に四人の子を儲けたが、いずれも女子であり、一人、また一人と生まれるたびに跡継ぎの問題が深刻なものになってゆく。
そうしているうちに、かねてより義一と懇意だった芸者のミチが懐妊した。産まれてみれば、念願の男子である。ミチはこの赤子を祥太郎と名付け、誰の手も借りず育て上げようと決めたのだった。
……ところが。
「祥太郎を俺と明子のもとで育てたい」
祥太郎が生まれて半年が過ぎたころ、義一がミチの家を訪ねてきた。
「……奥様は何と?」
「もちろん喜んで引き取ると言っている。俺とミチの関係も認めてくれているんだ。あれはできた妻だから」
「……私に育てさせてください」
「そういう訳にはいかない。祥太郎は俺の跡継ぎとなる唯一の男子なんだ。将来は立派な経営者となる。芸者に育てられたとあっては世間の印象がよくない」
「……この子の母親は私です。母親なのに育てる権利がないなんて。納得できるはずがありません。お世継ぎなら養子をとっては?」
「血の繋がりほど尊いものはないよ。なぁミチ。俺は本当に感謝しているんだ。俺の息子を産んでくれて……」
その夜、ミチは祥太郎を連れて行方をくらました。
この子を本当に愛してやれるのは自分しかいないと思った。明子が義一と自分の関係を認めてくれているなんて、そんなことがあるはずがないのだ。だって己は会ったこともない明子のことがこんなにも憎くて、不憫で堪らない。
義一は何日もかけて二人を探させたが、結局どこにも見つからなかった。
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