僕は知らなかった

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僕は知らなかった

 夕暮れの木漏れ日が窓から差し込んで、僕以外誰もいない放課後の美術室を茜色に染める。ゆっくりと時間が流れる陽だまりの中、目の前のキャンバスを黒く塗りつぶして、ため息を一つ。 「やっぱり描けないなあ」    ひと月前の美術の授業で出された課題の絵を描けないまま、時間だけが過ぎた。今週の金曜日の授業で提出しなくちゃいけないのに、描きたいものすら見つからなかった。 少しだけ開けた窓から金木犀の香りがやってきては、秋の訪れを知らせる。その知らせにつられて窓の方を見て、ついでに美術室の時計を見る。 「帰るか」  そう思って軋む椅子から立ち上がり、キャンバスを片付ける。片付けながら思った。やっぱり僕は、絵が嫌いだ。そんなことを思いながら、またひとつため息をついた。  美術室の鍵を閉めた僕は、一階の職員室を目指して大きな歩幅で廊下を歩き去る。吹奏楽のキラキラした音色も、サッカー部の夕日を焦がすような掛け声も、僕の耳には聞こえない。聞こえないというよりも、聞きたくないのかもしれない。漫画で夢見たような瑞々しい青春は自分のものにはなってくれなくて、気づいたら季節は高校二年生の秋になってしまった。  歩きながら、また小さく溜息をつく。春に芽吹く青い葉が、紅く染まって地に帰る今日この頃に、溜息ばかりが雪のように降り積もる。こんなはずじゃなかった。もう幾度も心の中で口にしては飲み込んできたはずの言葉。胸の内で育ち続けて、自分を蝕み始めたことに気が付いたのはいつ頃だろう。そのうち何とかなるやと、気楽に考えられたらよかったけれども、あいにく僕の性分には合わないみたいだ。  そうやって考え事をしながら校舎を出ると、空は晴れていた。雨の日が好きな僕は、晴れの天気は苦手だ。少し憂鬱な気分になりながら足早に歩く。雨空の下で傘をさして帰る時間が、濡れた土のにおいが、傘の下で自分の世界を広げることが、僕にとって大事な時間だった。傘からはみ出したカバンが雨に濡れていることに気づきながらも見て見ぬふりをする。そのほうがカバンも自分も都合がいい。だから僕は雨の日が好きなんだ。  ガヤガヤとした市街地を抜けて、人がいない小さな公園のベンチに腰掛ける。そしてカバンから文庫本を取り出して、一つあくびをする。右手に本を持ちながら両腕を伸ばして、伸びをする。帰る途中のちょっとした寄り道。それが僕の日課だった。  ベンチに座りなおして文庫本のしおりをとって続きを読み始める。そうしていつもどおりに昨日の続きを読もうとした時だった。ベンチの前の茂みから猫が一匹やってきて、不意に僕と目が合う。黒い艶やかな毛並みの小さな猫だ。飼い猫だろうか。 「かわいい」  思わずそうつぶやくと、猫は小さく鳴いて応えた。なついてくれたと考えるのはまだ早いだろうか。 「そうだ」  カバンから慌てて白い紙と鉛筆を取り出す。この際この猫の絵を描いて、美術の課題を終わらせよう。そう思って手で小さく四角を作って、小さな子猫を収めた。 「動かないでくれよ」  猫にそうお願いすると、さっきと同じように小さく鳴いて、毛づくろいを始めた。素直な猫だ。今のうちに手早く済ませようと思って、急いで猫の輪郭を描いた。猫がいなくならないうちにと思って頑張って絵を描く。でも思うように書けなくて、どうしようもなくなって塗りつぶす。 「やっぱりムズ」  早くしないと猫がいなくなってしまうような気がして慌てている僕をよそに、猫はのんびりとあくびをする。そうやって動きを変えられては、絵なんて描けない。そうこうしているうちに猫はゆっくりと四本の足で歩き出した。素直だと思ったら気まぐれな猫だなあなんて思いながら、僕も気まぐれにあくびをした。また会えるといいなあなんて思いながら、もう会えないよなあとも思って、鉛筆を筆箱にしまう。そして両腕を伸ばして伸びをしながら、空を見上げる。見上げた空はやっぱり晴れていた。
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