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僕はまたわからなくなった
「うまく描きたい」
ポツリとそうつぶやいて、猫を見つめる。
「君みたいになりたいよ」
猫は相変わらずのんきに毛づくろいをしている。人間の僕には毛づくろいなんてできなくて、こまって頭を小さくかいた。楽しく描きたい気持ち。うまく描きたい気持ち。いつの間にか感じ始めた不協和音は、次第に音が大きくなった。ただ描くことが楽しくて、楽しくて、白紙の紙にファンファーレを鳴り響かせていたときが、今は懐かしい。いつの間にか周りにどう思われるか気にし始めて、僕の空模様のセンスもズレていった。気づいたら僕の右手からノイズが鳴り響いて、耳をふさぐように鉛筆から手を放していた。最初はただ楽しいだけでよかったのに。いつからこうなったんだろう。いつから。そう自分に問いかけるように、空に向かって両手で小さく四角を作る。枠からはみ出した青い余白が、僕には少し余計に思えた。小さくため息をついて、今度は猫を枠に収める。猫は相変わらずのんきにあくびをしている。
「いいなあ」
僕には猫のような気楽さが必要なのかもしれない。絵を周りの人に見せると、皆僕の絵をほめてくれた。そのうち小さなコンクールで賞を取って、ただ絵を描くことが楽しかった。僕は思った。もっと絵が上手くなりたい。いや、評価されたいと。もう一度白紙の紙を見る。気づいたら思わず白い紙に濁流を流して、あくびをする猫を跡形残らず水面の底に沈めてしまった。
過去の僕はいつか絵が上手くなって、自分の絵は評価されるようになると思っていた。そう思いながらも評価されなくなることが怖かった自分は、右手から鉛筆を放したままだった。そんな自分の右手から心地よい音色はもう流れなくて、いつの間にか僕は下を見ながら歩くようになった。そんな自分が嫌だった。でも自分を嫌がることが一番嫌だった。
「にゃーん」
猫が小さく鳴いた。その鳴き声が僕の意識を目の前の黒い濁流から連れ出す。猫は目の前のもと来た茂みに戻っていく。一体猫は何をしたかったんだろう。何をしに僕の前に現れたんだろう。見ず知らずの自分の前であくびをして、伸びをして、飽きたら帰る。まるで僕のことは気にしていないみたいに。僕はやっぱりあの小さな黒猫のようになりたい。でもなれそうにない。だって僕は僕だから。
「にゃー」
猫の鳴き声がした。声のする方からじゃれる猫の声がする。僕はなんだか気になってベンチから立ち上がり、茂みの中に入っていく。少し進んだところの木陰の中で、さっきの子猫がもう一匹の猫とじゃれていた。
「母猫かな」
子猫は母猫と思しき猫と楽しそうにじゃれている。ただ無邪気にじゃれている。もしかしたらさっき子猫は母親を探していたのだろうか。もしそうだったら会えてよかったと思って、なんだか安心したような気持ちになる。この子猫は母親に見つけてほしかったのかもしれない。根拠もなくそう思った。
ふと思う。僕も誰かに見つけてほしかった。その誰かはだれでもよくなくて。他でもない自分自身に。目の前の子猫のようにただ無邪気に、のんきに、楽しくじゃれる自分を見つけて欲しかった。僕は評価されたいんじゃなくて、自分を見て欲しかった。他でもない自分に。評価される自分を楽しんでいる自分として受け入れたいだけだった。
ただそれだけだった。
思わずベンチに向かって駆け出した。カバンから塗りつぶした紙と消しゴムを取り出て、夢中で黒く塗りつぶされた紙に消しゴムを走らせる。消しゴムがこすれて、音がする。その音が心地よくなるように、黒い水面を消していく。消しカスが跳ねてリズムを打つ。消しゴムと紙がこすれて、響き渡る。自分にしか聞こえないその音色に導かれて、一枚の絵ができた。輪郭もおぼつかない、何の絵かわからない絵。僕はカバンから自由帳を取り出す。最初の1ページ目に書かれた絵を今でも覚えている。それは猫の絵だった。
「僕はもう知っていたんだ」
僕は知っていた。ずっと会いたかった自分を。
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