どこにも行けない どこにも行かない

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全てのデータ入力から解放された時には20時を回っていた。 まだ仕事をしている教頭先生に挨拶をして、私は流れで伊勢谷先生と学校を出て駐輪場に向かった。伊勢谷先生はバイク、私は自転車通勤をしていた。 「今日はありがとうございました。」 「困ったときはお互い様でしょ。」 そうかも知れないが、この人の困る姿は想像ができない。 「……伊勢谷先生っていつもすごいですよね。」 「何が?」 「何でもスマートにこなすから。慌てふためいてる姿を見たことがないです。」 「ははっ。そうでもないよ。」 伊勢谷先生は苦笑して、満月の浮かぶ空を見上げた。 「河辺先生が思ってるような人間じゃないよ。けっこういい加減。」 そう言ってポケットから煙草の箱を取り出した。 「ごめん、一本吸わせて。」 「……校内禁煙ですよ。」 「知ってる。だから見逃して。」 今まで知っていたのと違う姿。ライターの火が一瞬光って消える。 「あ、煙、大丈夫?」 伊勢谷先生が私から距離を取ろうとしたので、思わず彼の腕を掴んだ。 「平気です。その代わり一本ください。」 伊勢谷先生の動きが数秒止まる。私の言葉の意味を理解するのに時間を要しているみたいに。
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