どこにも行けない どこにも行かない

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「どうぞ。」 結局、追求せずに煙草を一本くれた。くれて、私がくわえたら、ライターで火をつけてくれた。 つけてくれたがほんの数秒で咽せた。 ゲホゲホと咳き込んで、私は地面に座り込んだ。 「何これ!?めっちゃ不味い!!」 「えっ!?どういうこと!?」 伊勢谷先生の手から煙草が落ちるんじゃないかと思った。それぐらいに彼にとって私の行動は不可解だったのだろう。 「ちょっと待って。河辺先生、喫煙者じゃないの?」 「違います。吸ったことなんてありません。」 「はぁ!?」 父が喫煙者だから煙は平気だけど、自分が吸ったことは一度もない。 「何だよ、それ。」 伊勢谷先生は私の前にしゃがみ、手から煙草を引き取ると、携帯灰皿に揉み消してくれた。 「共犯。」 伊勢谷先生が手にしている彼の煙草を見ながら、そう呟いていた。 「共犯?」 「一緒に吸ったら共犯になるから。そっちの方が伊勢谷先生も私が見逃してくれるかどうか、気にしなくていいと思ったから。」 見逃すに決まっているけど。どうかなってずっと思い続けさせるのは申し訳ない気がしたのだ。 伊勢谷先生は小さく溜息をついて、私が一つに束ねていた髪のゴムに手をかけた。 「解いたら。もう誰もいないよ。」 「うん……。」 きつく縛った黒いゴムを解いた。校内では初めて。 「綺麗な髪。」 それだけ言うと、立ち上がって歩き出す。 「帰るよ。」 二、三歩進み、立ち止まって放たれた彼の一言に、私も立ち上がって、後ろからついて行く。 伊勢谷千鶴という人間への見る目が変わるには十分な夜だった。
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