どこにも行けない どこにも行かない

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車が向かったのは、私たちの仕事場である高校から30分程のところにあるピアノ教室だった。 3階建てのビルの2階に位置するその教室は、大手の、誰でも一度は名前を聞いたことがある教室だった。かく言う私も、子どもの時に別の場所にある同じ名前の教室に通っていた。 そのビルの前の路上に車を停める。するとすぐに、助手席側の後部座席のドアが開いて、一人の女の子が乗り込んで来た。 「千鶴くん遅い!!」 頬を膨らませたその女の子は、伊勢谷先生に似ているような似ていないような、色白の小学生にしては整った顔立ちをしていた。 肩のあたりまである髪を二つぐぐりの編み込みをしている。前髪は斜めにしてピンクの花柄のピンで留めている。 「いやいや、時間通りだろ。ほら、早くして。」 「1分遅刻!」 そう言いながら、女の子は座席の上をお尻で滑りながら移動し、自分で運転席側に設置されたチャイルドシートに座り、手際よくベルトなどを締めていく。 「で、お姉さんは?」 フロントミラー越しに彼女と目が合う。 肩を出したロゴのTシャツと膝上のハーフパンツにハイカットのスニーカー。最近の女の子は低学年でもオシャレだなぁとしみじみする。 「あの、伊勢谷先生の同僚で河辺紬と言います。」 小学生相手だが、彼女のしっかりしたオーラから思わず敬語を使ってしまう。すると、すぐに女の子に伊勢谷先生の声が飛ぶ。 「七海、先に自分から自己紹介しろ。」 「はぁい。伊勢谷七海、小学1年生です。千鶴くんは私の叔父さんなの。千鶴くんのお姉ちゃんが私のお母さん。」 「あぁ、なるほど……」 納得。 「隠し子の方が良かった?」 伊勢谷先生は微笑しながら、慣れた手つきでハンドル操作をしている。 「いえ、そんなことは……。」 「姉は離婚しててね、仕事が忙しい時は俺がこうやって七海の相手をしてる。今日、姉から七海と一緒に彼女のピアノの発表会の服を選んで買ってきてって頼まれていて。でも、正直俺は女の子の服なんて分からないから、河辺先生に一緒に選んでもらえたらと思って。」 「あの……私でいいんですか?」 もっと適任がいる気がしてならない。 「うん。むしろ急だったのに来てくれてありがとう。」 「……。」 仕事場とは違う伊勢谷先生の穏やかな表情。 助手席に座る私の中で少しずつ、でも、確実に何かがカタカタと動き始めているのは確かだった。
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