どこにも行けない どこにも行かない

25/29
前へ
/137ページ
次へ
伊勢谷先生はいつもと変わらずブラックコーヒーを口にしていた。店主の淹れるコーヒーがすごく美味しいのだと教えてくれた。 「前の職場の近くに行きつけの喫茶店があったんだけどね。場所的にもう頻繁には通えないから、今はここが行きつけ。」 「素敵なお店ですもんね。コーヒーもプリンパフェもすごく美味しい。」 私も甘い物のお供はコーヒーってことで、プリンパフェのセットにしてコーヒーをお願いした。 静かな空間だった。客は私たち以外に、カウンター席に座る少し年配の男性が一人。文庫本の世界に没頭しているようで、私たちのことなど眼中にない。 聞きたいこと。今なら聞けるのではないかと思っていた。 早鐘のような左胸を手のひらで一度押さえ、息を吐いた。 「聞きたいことがあるんです。」 「何?」 「……どうして……私に……構うんですか?」 言った。言ってしまった。 この人の性格からして無自覚ではないと思う。え?そんなともりなかったんだけどとは……。 髪に伊勢谷先生の手が触れる。 「髪が綺麗だったから。」 「そ、そ、そんな理由!?」 えっ?えっ? 何だか拍子抜け。私はてっきり毎日真面目に頑張っているからとか、山之内先生に歯向かう姿を見ていたら放って置けなくてとか、都合が良さそうだったからとかそんなことを言われるだろうと予想していたのに。 「何かよく勘違いされるんだけど、俺、色々考えて生きてるような人じゃないよ。前にも言ったけど、結構いい加減。」 「じゃあ、私の髪が綺麗じゃなかったら、構わなかったんですか?」 「それは、分からない。そんなこと考えたことないし。」 そりゃそうだ。 「まあ、最初の理由はなんであれ、河辺さんといたいと思う自分がいるから、今は声をかけてるんだとは思うよ。」 「……そんなこと言われたら……戻れなくなります。」 はっきり言わなくても伝わっている。戻れなくなると言うのが、好きになってしまうってことだって。 伊勢谷先生は何も言わない。私のことは好きではない。そんなことは百も承知だ。
/137ページ

最初のコメントを投稿しよう!

87人が本棚に入れています
本棚に追加