どこにも行けない どこにも行かない

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「どこかに行きたいって思ったことがある。」 伊勢谷先生の声がして手が緩んだ。君って人はって顔をして私のことを見ている。その目は私のことを見ているのに、どこか遠い昔を映しているようだった。 「全部なくなって、自分という存在をなくせるところに。でも、どこにも行けなくて、俺は日々を紡いでいる。」 「……。」 「っていう昔の話。今はね、そんなふうに思うことも少ないんだ。去年、素敵な生徒に会えてね。彼らのおかげ。」 七海ちゃんが言っていたことだ。 「でも、誰か一人のことを思う自信はまだない。失う怖さが勝つんだ。だから、思わせぶりなことしてごめんね。」 伊勢谷千鶴はこういう人だ。過去の自分について「こんなことがあって、大変だったんだ。」なんて簡単に口にはしない。 でも、そんな彼だから私は惹かれてしまうのだ。 「じゃあ、ずっと私に思わせぶりなことしてください!」 「えっ?」 「私一人でドキドキしときます。今はそれでいいです。思わせぶりなことずっとして、し続けた結果、こいつ簡単にいなくならないって思ったら、私と少しでいいから向き合ってください。」 「……。」 「どこにも行けなくてもいいじゃないですか。私はどこにも行きません。」 伊勢谷先生は何度か瞬きをして、「負けたよ。」と言って、自分の横髪を掌でくしゃっと掴んだ。
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