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その日は1時間近く紫音の隣に座ってそれだけで帰った。
それから俺は二、三日置きに彼女の家に呼ばれて行くようになった。行ってもただ隣に座るだけ。時折、彼女の手を握ることはした。彼女が震えている時に。
叔母さんの話では、俺が来る日は紫音の状態が落ち着いているそうだ。どこが?って思うが毎日会っている人には分かるのかもしれない。
そんなある日、昼過ぎから真尋たちとスタジオで練習していたら、叔母さんからメッセージが来ていた。もし、都合が良ければ紫音に会いに来てくれないかと。昨夜も手首を切って困っていると。
切るなら連絡してと言ったが、するとは思っていなかった。あの目は簡単に人を信じる目ではない。
「亜貴ー、これから晩ご飯食べに行く?」
ベースをケースに片付け始めた礼央に尋ねられたが、俺は首を振った。
「ごめん。今日は行くところがある。」
都合が良ければなのだから、見捨ててもいいのに。見捨てられない自分がいる。
「了解!そしたら今日は俺と真尋だけか。翔太もお姉さんのところに行くんだって。」
お姉さんと言うのは、決して養ってもらっている人とかではなく、近所に住む幼馴染みのお姉さんだ。翔太ははっきりとは言わないが、多分、彼女のことが大切なのだと思う。
翔太が小学校入学したての頃からずっと面倒を見てくれている人だ。一度だけ見たことがある。
小学六年の時に俺ら四人で叔父さんのスタジオに泊まった時のことだ。翔太はそのことを誰にも伝えないで、自分の判断で泊まることにしたのだ。
お姉さんはいつまでも帰ってこない翔太を心配して、ここまで探しに来た。そして、彼女は最後に泣いたのだ。「翔太に何かあったら、私、どうしたらいいか分からない」と。当時、大学一回生だった彼女を、まだ小学生の翔太がぎゅっと抱きしめた。そして、一言だけ「ごめん。」と言った。
結局、その日は翔太は彼女に連れて帰ってもらった。
二人を見送った後で、俺は礼央と「好きな人っている?」「いない。」「翔太が大人に見えた。」「俺も。」と言う会話をしたことを、今でもはっきりと覚えている。
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