始まりのキス

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理由なんて分からない。 私は賃貸のエレベーターに飛び乗ってその子のところに舞い戻っていた。 「何してるの?」 彼の隣にしゃがんで尋ねていた。 「落書き。」 「楽しい?」 「別に。」 「お家、帰らなくていいの?」 「帰っても誰もいないから。」 そう言ったがすぐ、その子のお腹がきゅるると鳴った。 「お腹空いてるの?」 「……。」 「うちに来ない?カレーがたくさんあるの。」 一人よりは誰かいた方がいい。 それしか考えていなかった。 この子が誰かとかどこの子かとか気にもしなかった。 見ず知らずの中学生の提案をその子は断らず、私の後について来た。 そして、「美味しい。」って言って、カレーを食べてくれた。 その時、初めて見せてくれた笑顔はすごく可愛くて、私は今でもその顔を覚えている。 その後、仕事から帰宅したら母にはめちゃくちゃ怒られた。人様の子を許可もなく家に上げるなんてあり得ないと。 母はその子に名前と住所を聞き、どうしてあそこにいたのかも聞いた。 彼、相野翔太は私たちの家から然程離れていない一軒家に家族三人で暮らしていた。 暮らしてはいるが、ほぼ毎日、両親は日付が変わる頃にしか家に帰ってこないそうだ。後で知ったことだが、翔太の両親は仕事が多忙なのもあったが、お互いに愛人がいて、その愛人に入れ込んでいたのだ。 両親は翔太にご飯はお惣菜や冷凍食品を買い揃えてくれていて、それを温めて食べてるように話していた。 それ以外の自分の身の回りのことは自分でできると翔太は言い、だから、通報とかするなと、母にはっきり言った。あの家にいることを望んでいるのは自分だからと。 母は「分かった。」と頷いたが、一度は翔太の両親に会いたいと伝えた。 当時、15歳の私は知らなかったが、もう少し大きくなってから、母が翔太の両親と何を話したのか教えてもらった。 翌週の土曜日に母は翔太の両親に会い、もし良かったら、うちで時々ご飯の面倒を見ますよと話をしたそうだ。 そんな見ず知らずの他人からの提案を飲むのかと思うが、翔太の家族もこの地に越して来たばかりで、頼れる人が欲しかったこと、翔太の母親も保育士の仕事をしており、母と意気投合したことなどをきっかけに、翔太はうちでご飯を食べるようになった。 あの日、母が翔太のためにそこまでしたのは、彼を心配したのもあるけど、「お父さんがいなくなって、女二人じゃ寂しいでしょ。お父さんとお別れをしてすぐに彼に会えたのも何かの縁だと思うの。」と言うのが、最大の理由だった。
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