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「ダイエットなんてしなくても、あなたは十分に綺麗よ」
「……ありがとう、ございます」
言えなかった。太るからだけじゃないって。胃が痛くなるから食事が出来なくて痩せていく一方だって。
言えなくて当たり前か。私が最初にダイエットをしているだなんて嘘をついたのだから。あとから後悔なんてしても遅いというのに。
どんどん肩が内側に入っていき、背中が丸まってテーブルと額の距離が一段と近くなった時、先生は優しく私の名前を呼んだ。そうすることによって、私がまた姿勢を正すと分かっていたから。
「職場のパワハラ、モラハラはどう?」
「…………」
「何も改善されてないのね。以前から言ってる転職は考えてみた?」
「考えては……います」
また、嘘をついてしまった。
この業界には、もう二度と関わりたくない。この業界じゃないところで働きたい。そう、先生には言ったことがあった。でも結局口だけなため、こういうところで働いてみたいだなんて気持ちは生まれてこない。
今の私に一番必要なことは、休息だろうから。
「婚約者の方には言ってみたのかな?」
婚約者という言葉が出て、自分がどんな表情を浮かべて首を横に振ったのかは分からないけど、先生は〈そう〉と息を吐くように呟くと、重苦しい沈黙がこの空間に落ちる。それが何を意味しているかというと、私がこの診察室から出ていくことを示している。けれど私は腰が重くて、あとは心を重くしているものを吐き出したくて椅子から立ち上がることが出来ないでいた。
「あの……少しだけお時間ありますか? ちょっと吐き出したくて……」
勇気を出してそう言ってみると、先生は優しい表情を浮かべながら頷いた。
「好きなだけ吐き出して」
ふぅ、と少しだけ息を吐き出し、先生にお礼を言った後、私は再び俯く。
「……今日、施設の利用者の方に〝精神の薬飲んでる?〟って訊かれたんです。ちゃんと表情を作れていたかは分からないんですけど、健常者のふりをして咄嗟に飲んでないって答えたんです」
「うん」
「そしたらその人、自分と同じだって。体はすごく細いのに顔が丸いって、一時期太っていたから職員でもそういう人がいるのかなって。そんな私を庇って〝清水さんは職員なんだから飲んでるわけない〟って言ってくれて……これでもかというくらい胸が張り裂けそうになりました」
思い出すだけで、あの時の衝撃が蘇ってくる。それによって少しだけ呼吸が浅くなっていると、先生が私の隣に移動してきて背中を撫でてくれた。「ゆっくり呼吸して」とこちらを気遣うような声色に、呼吸をするのもだいぶ楽になってくる。
ただ、ホッと胸を撫で下ろすことは出来なかった。
「私はうつ病なのに職員で、健常者のふりをしていて。施設を利用している人たちは自分の口から精神障害や知的、発達障害と言えていて……どっちが立派だと言えるのでしょうか……」
「人と比べる必要なんてないんだよ」
先生の言葉は私の耳には届いていなくて。眉間にうんとしわを寄せた私は、膝の上で拳を握っている手に視線を落とす。
「私は……私は……」
──生きていていいのでしょうか?
そう言おうとしたけど、言えなかった。
先生も私が何を言おうとしたのか分かったのだろう。変に言葉をかけることもなく、先生はその後、一度も口を開くことはなかった。
職場を辞められるなら辞めたい。でも、私が辞めたらきっと施設は回らない。回らなくなったら利用者が困ってしまう。
長い人は5年以上あそこで働いていて、1年以上同じ場所で働き続けるのはこういう事業所ではとても珍しい事。だから、あそこが居づらくなって辞めたいとなれば、また行き場を失ってしまうかもしれない。そう思ったら結局、今のままでしかいられなくて……ただ耐えるしかなくて。
ただでさえ弱っている時に、私には逃げ場所も弱音を吐き出せる相手も、救いを求める勇気も強さもないのだという事実が追い打ちをかけてきて、一人で勝手に深手を負っている気がする。
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